エレガントウォーキング
彦根⇒木之本38km

2011年7月23日


今年二回目でしょうか。毎度のコースで地図なくても38km迷いません。
今回は、慣れから少し寄り道も。

   
 
 
何気ない集落であっても、長い歴史を潜りぬけた重厚感は十分伝わるものであり、
今回、少し寄り道をしてみた。長い石段を登り琵琶湖を眺める様は、
潮の香りや潮騒がないだけで、どこかの海に面した漁村のそれと何ら変わりありません。

   


毎度のことですが、僕は木之本まで歩いたら電車で彦根まで戻り、
今度は歩いた道をウーマン号で北上。

エレガント・ウォーキングで琵琶湖を選ぶのは、豊かで独自の進化を遂げた湖国の食文化に魅せられたから。
鮒ずしやブラックバスのから揚げ。
今回はビワマスを一尾買いまして家で刺身といたしました。絶品の味わい。

毎度のコースですが、日記にその都度の心情などこと細かく書いてありますので転載しました。






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 //涼しい夏の日に// 台風六号が東にそれた途端、西高東低なのか寒気が大量に流れ込み、つい先日まで今年の酷暑は何日ぞ、、、と恨めしく先を想像していたのですが、どういうことでしょう、まるで冷夏のような涼しさです。

それは北からの向かい風なのに確かに後押ししてくれた。僕は今年二度目の彦根⇒木之本38kmエレガントウォーキングに、土曜日の4:20分、冷涼な琵琶湖岸の大気をまとい北へ向けて歩きだす。もう何度となく歩いたコース。地図を片手に昔でいえば「追分」にあたる分岐の箇所を不安に思うことなく立ち止まる必要もないのは、歩みを普段に増して軽やかにし、とても快適。

時折、パラパラと小雨を感じ、日の出前の朝というものは濃い雲の下にあるのは東の空が明瞭に物語る。でも、それは夏のウォーキングには幸いでもある。なにせ直射日光がもたらす体力消耗というのは、ウォーキングの充足感を達成したときにようやく味わえるだけであって、歩いている最中というのは、よほど明媚なところでもない限り苦行に近いものがある。 知恵は付くもので、日の出前にいかに距離を稼ぐかも、いわば反作用から生み出されたものであるのだ。 確かに日の出の時刻は過ぎたのだけれど、東から射す夏の太陽は濃い雲の中にあって、冴えない写真は仕方ないにしても、やはり体には心地良い。歩いている楽しさを、疲れないというのは心底感じ入るものなのだ。 何かを考える余裕というものが当然に産まれ、陶芸のデザイン。北ベトナム防衛網の対空ミサイル。色欲なこと、法外な欲に基づく贅沢な生活への妄想などなど、琵琶湖岸を歩いているのに、往時を偲んだり、見る地理に興味を覚えたり、やはりこれも何度目か故でしょう、全く頭に湧いてこないのです。六時五分前まではラジオも聞かず、波の音は聞こえるのに、これまた聞き流しているようである。ヒグラシは聞こえたのだが。

朝のNHKラジオというものはニュースや天気予報に接する第一義的な価値より、健全な朝を認証してくれているかのようで僕は好きなのだが、どうしたことか6:30からラジオを一時的に消すのは何年も前から自然とすることであり、僕はあのラジオ体操のケタタマシさは、健全な朝の情緒に反するものであると感覚的に拒否しているのです。

やはり、その間、波の音は聞こえるのに、聴き流している。


(つづく)

A
//つづき// 
そういえば前日は名古屋市は中村公園に用があり、そこにある豊国神社に参拝したものだが、今、長浜城のある豊公園に入ろうとするとき、まるで秀吉の出世街道を歩いているような、ご利益を感じるのである。中村の藤吉郎は貧農の子で泥にまみれて、鮒や泥鰌などを食べていたのは想像に難くないが、はたして長浜城主となったとき鮒ずしは口にあったのか??と、ようやくここにきて風景と思考の連鎖が現れる。

38kmものコースを何度も歩いていると、休憩に適した場所、折々の限界で倒れこむように入る場所、と自然発生的に産まれるものであって、先ほどの豊公園もその一つではあるが、一つの通過儀礼として近くにある英霊を祭る神社には麦わらも脱帽して深く祈る。そのあと豊公園でおにぎりを食べるのだが、前回も見た自転車おじさんはやはり太った猫を10匹ほど引き寄せている。広い公園で人との距離感は皆、疎なのだが、このおじさんは二倍以上もの疎を放っており、まっすぐ歩く健康人も手前からかなり大きく迂回している。

彦根から豊公園までは琵琶湖岸の道で、雄大な琵琶湖は左手の先に必ず存在している。湾曲する浜辺に沿って道もまた弧を描くので、歴史ある道なのでしょう。と、申しますのは豊公園から先は、地図の上では琵琶湖岸沿いを歩くのだが、左手の先に琵琶湖はなく豊な樹林なのである。それは開拓地を思わせる真っ直ぐな道からも想像がつくように、戦後の干拓の上に整備されたものである。それを物語るものとして右手の先には何箇所か○○内湖というものが存在している。琵琶湖の飛び地のような存在となってしまった、元琵琶湖の姿でもある。
話を左手に戻して、その先、50-100mには琵琶湖はあるのですが、干拓地と湖の緩衝地帯は開発の手から逃れ、葦が茂りそして土壌が豊かになるにつれ木々が茂り、もちろん、公園として整備されている個所も相当な割合なのだが、折り重なる木々の向こうに見る琵琶湖は明媚の主役をまるで北海道のような広大で美しい一直線の道に変えるのである。これから進む真っ直ぐな道もそうだが、東を見ると、これまた真っ直ぐな道が緑の中に伸びている。北海道との違いを言えば、かつては、あの辺りが浜辺であっただろうと思われるラインに見る古く堂々とした日本家屋の群れであろうか。


B
//つづき// びわ町スポーツの森という施設も、必ず寄る休憩所で、ベンチに座り130円の自販機のアイスクリームも、しかもプリンの味のナンタラ、、というものを僕は毎回選ぶ。ベンチに座って、この頃には北の空は青くなり、一際緑も美しく映える。自転車に乗った老婦人が近くに座り、いろいろと話すのだが、彦根から歩いてきて、これより先は木之本まで行くと申したところ、手を合わせて「感心な若者じゃ!」みたいな反応をするのだが、照れくさいというよりかは、確かに歩き過ぎなコースだし人を驚かすにはボリュームもある話かなと内心納得もしたり。その老婦人は朝のゲートボールの待ち合わせ一番乗りらしく、次から次へとやってくるではないか。4-5人ほどに成長し始めた頃、質問攻めの予感を感じ僕は先を急ぐ旨を申し失礼した。   
この辺りも直線の道は続くのだが、琵琶湖の見れる切れ間というものが多くなり、はるか前方に見えていた竹生島も今や過ぎ去ろうとしているし、港と言うには荒れない琵琶湖だからかとても簡易な作りのかわいらしい漁港があったり。  
 長浜からの直線の道というのは、毎回、日の出から数時間は過ぎた頃で夏の太陽はほとんど真南から射してくる。道の両側には立派な松や樹林帯があるのに、全く木陰の恩恵に浴せないエリアであって、これより先、木之本までは炎天下の行軍だが、今回に至っては北の空は青いのに南は曇っていて、間接照明なのである。これは楽だ。今やダイエット・フワフワ靴。つまり靴底にエアの山があって歩くのにフアフアする、があるのだが、右の山だけ空気が抜けてバランスも崩れるは、条件は悪化しているのに、直射日光の体力消耗が計算に入っていないので、ペーストしては過去最高である。速い速い。

この先にある道の駅も、休憩所ではあるが、ここまで歩いても疲れ知らず。靴底を確かめて叩いたり捻ったりしても空気は戻らないことを確認したら、再び歩きだす。琵琶湖沿いのコースも残すところ3-4キロ、片山隧道までである。  この間の、つまり道の駅から隧道までのコースは本当に好きだ。  大きな木があって、その下に祠や石碑もあるから、何かの意思表示ではあると思うのだが、どうやら追分の注意喚起である。と、確信をもって言うのは、以前のウォーキングで、僕はこの木に救われたからである。今回とは違い北の空から黒い雲がやってくる。田舎での肉眼レーダーははるか遠くまで見ることができ、これは寒冷前線が南下しているのだと読んでいたのだが、読みは半分ハズレて木之本まで持つかと思ったら道の駅を過ぎてから風が強くなり冷たい雨が激しく降ってきた。山本という集落の、大きな屋根はお寺だろう。軒先を借りるか、歩みも速めたが、雨が叩きつける様になり、傘も何もない状態で、とにかく集落の入り口にある、この木の下に逃げ込んだのだ。何の広葉樹かは知らないのだが、アスファルトは水も溜まると言うのに雨だけはしのげている。 することが無いので祠に手を合わせ、コミュニティーバスの時間を眺めていたら、とてもそんな時間でもないのにやって来て、「駅まで行ける??」とどこの駅かも知らず回答だけは引き出し乗り込んだ。 追分の、僕の知らないもう一方の道は、コミュニティーバスだけあり、古い集落を縫うようにして、昔の街道沿いだろう、僕は高月駅まで外を眺めていた。 物置のようなかろうじて屋根だけはあるバス停に自転車乗りが避難して、僕は乗らないよ、と運転手に手を振っていたのが今もとても心に残る。
  
 思い出話は長くなりましたが、それはここで終わるとして、毎回、通り過ぎては願望だけは強まる箇所があって、それは湖国の料理を供する宿の前を過ぎるときに、鮒を食べては興々とする変わり者もなかなか見つからないだろうし、ましてや泊まるという強制力を働かせるには、近江の食文化にぞっこん惚れ込む者か、もしくは恋の力が必要なのかと、思っては計算が成り立たないと諦め通り過ぎるだけである。そうは分かっていても、どうしても思ってしまう理想の宿があるのも、この区間であるし、視界を阻む樹林帯はもはやなくなり、琵琶湖の最北部というものは湖なのにリアス式なのですよ。山がそのまま琵琶湖になる。だから、リアスの手前までは人の生活もあり、こうやって道もあるのだが、とうとう住める土地もなくなり、片山隧道が新境地の入り口になる。 隧道の手前、山本という集落は、玩具のような灯台のある小さな小さな漁港のある「港町」  山を背にして集落があり、ひときわ大きな屋根は神社仏閣。 今回は、大きな木のある集落の入り口から、外から見るだけだった山本を旧街道を使ってじっくりと歩く。観光地でもなく、なのに観光地として売り出している宿場町より、はるかに趣きがあって、昔はこの道を行き来していたのだろうと、家々の作りが何かしら訴えかけるし、急こう配の石段を登った先の神社は、振り向けば日本海や志摩にある港町そのものの水面の青さと日本家屋の黒い瓦屋根。  社務所もなければ土産物屋も案内所もなにもない。住む者だけが自分たちの尺度と時間で過ごしている山本。集落を過ぎ、再び片山隧道に通じる本来の道に戻る。500mもない。


片山隧道を潜ると、向こう側の土地が高いのを実感する。近江の最低部は琵琶湖周辺であり、全ての川は琵琶湖に注ぐ。片山隧道を越えると余呉川が流れていて、これまた大きく迂回して琵琶湖に注ぐ。  川ついでに申せば、一つ解せないのが滋賀の一級河川の区分。彦根から何度も橋を越えたが、名古屋で言えば堀川にも満たない川幅と水量で一級河川○○川の看板があちこちにあって、科学的区分というよりかは、なにかその琵琶湖に託けてふんぞり返っているような気もします。最も恰幅の良い川は姉川であるのだが、これまた名古屋で例えるなら天白川程度。名は高いにしてもやはり解せない。
 片山隧道を越えると、いかにも美味しそうなお米のとれそうな広大な田園地帯。小高い山の近くには集落が点在していて、あとは田圃。青々としていて風に揺れる。琵琶湖一周の自転車乗りも僕と同じコースで颯爽と通り過ぎては、先ほどとは違ったこの美しさに心奪われているのかもしれない。  
 ようやく天気予報通りに太陽の直接の光線を感じる。真後ろからだ。毎度のことだが、ここから木之本まではいつも疲労困憊している。久しい以前から受ける直射日光と、夏の田圃の中をひたすら歩くある種の絶望と、体を休めるべき適当な場所が無いのと、指先が激しく痛み出す靴の限界。今回は、トラブルが発生したにせよダイエット・フアフア靴の高機能にも助けられている。後半、最も苦しめる指先の痛みを未だに感じないのは、やはり最も速いペースのウォーキングを引き続き継続できそうな安心感を溢れるほどに感じさせる。
 木之本までは8kmほど。緑に揺れる美しい田んぼの中をひたすら歩くだけで、毎回、ここで一休みという場所さえ見つけられない単調さはあるのだが、僕が勝手に思い込んでいるパワースポットもあり、そこでは少しだけ祈りめいたものをする。 
 そもそもおかしいのだ。ありえないのだ。その場所は、東西に山が走っていてる。なのに南北に川が流れている。おそらく最初に東西の山並みがあり、後日の地殻変動で南北に川が流れたのでしょうか。川の両側の山の切り口は一致すると僕は見ている。この接点は、通り過ぎれば100m程だろうが、僕は勝手に陰と陽の地殻の力が働く場所と勝手に思っていて、もしや名高き分杭峠に通じるものがあるのではと、期待して立ち止まるのだ。

快適に歩けるというのは、以前の最も苦しい区間を再認識もする余裕も持ち合わせる。例のパワースポットから木之本駅までは、さほど遠くなのを今回初めて知るのだが、前は歩いては止まり足が痛いと恨めしく思っていたのだ。 途中、コンビニで小さなボディーシャンプーを買う。
木之本駅に無事に到着し、障害者用のトイレを拝借し、両腕と顔を洗い、石鹸成分をしみ込ませたタオルで体を拭いてシャツだけは着替える。疑似風呂上がりのあと、地元産の物販所での買い物の楽しみは、達成感も手伝って感覚を狂わせる。薬草風呂の元が売られているのだが、家にまだ十分にあるというのに、ご祝儀で買ってしまう。
来た道はJRを利用して彦根まで。途中、米原での連結で時間も要し45分も乗るのだが、乗り過ごしの恐怖は、快適に歩いたと言う割には前に代わることなく感じるものなのだ。