令和5年12月décembre.2023

le 31 dimanche 日曜日
//2023年私的10大ニュース//順不同の10本と次点

令和五年、御縁を頂いた全ての皆様に、御礼申し上げます。

●夏の熊の湯にて積年の心の躓きが消えた
 【解説】長湯に長湯を堪能していたら、何事も瞬間に消え去るというのに、私は数秒の事でさえ心で何年も再生していた事に気が付く。事実は事実だとしても瞬時にして過ぎ去ったと分ってから、不思議です、嫌なこと自体起こらなくなった。

●瀬戸時代を終え、何にも属さない生き方。
●新工房の建屋は完成。
●各地に出店。
●名古屋は栄のど真ん中で修了展
●父上と毎日健康体操。
●可愛いムクちゃん、初代・二代目と毎日心の中でお話。
●平日に旅行に行ったり買物をする新しい時間軸。
●素晴らしい釉薬の開発。
●心の有り様、置きどころ等、日々の座禅や瞑想で深める。
【次点】自由民主党党員になる。

//今//今とは不思議なもので一秒の過去でも未来でもない。人間は宇宙に行けるのに一秒前の世界には誰一人行くこともできない。未来も然り。

こう考えてみたら諦めがつくというか納得がいく。
【今】という固定された瞬間にのみ命が存在する。私は産まれてから死ぬまで決して、この今の位置から動かない。ただ、途切れることなく未来から今に、「現実の瞬間」がやってきて、今に位置する時だけ魂が宿る。そして、その瞬間は瞬く間に過去になり、もはやそこには魂は宿らない。パラパラ漫画のように、私が生きているのは固定された【今】という瞬間のみ。ただ途切れることなく動画のようにやって来る。だから未来には私に用意された世界があり、確実に迫って来るものの、それを味わう魂の存在は【今】の瞬間にしか留まることが出来ない。人間が過去にも未来にも行けない理由は、命は今という瞬間にしか存在できない固定化されたものであるから。
人間は針の上の一点のみで生きるのだが、全く自由に思うのは、背景が途切れることなくやって来るから。

その針先で喜怒哀楽がある。

この世界を針先と思うなら、風のように流れ来る瞬間瞬間を如何に解釈して味わい深きものにしていくか。起こりうる全ては良きことと解釈できる心があるのなら、私は針先の上で大空に向かって両手を上げて深呼吸をするし、万歳三唱を唱えるかも知れない。その時、世界は広大無辺に感じる事も出来よう。どこにでも歩いて行ける気もする。

でも、これは真実のような気がする。
広大な宇宙で人間が生きていけるのは地球だけ。それこそ針先の点が全てである。なのに窮屈な思いをしないのは、私のために連綿と瞬間瞬間が今を通り過ぎるから。
風を感じるとき、止まっていても狭い感覚はない。これと同じだ。

だから、人生とは、死ぬまで私に用意される瞬間瞬間の意味を如何に豊かに味わい深く良きものとして解釈することが最重要であり、これが人生の質にもつながるのだろう。何をするのは二の次で、今この瞬間に私が存在する素晴らしい意味を見出し、それに沿う行動こそ、実は何をするかという答えなのだと思う。

難しく書きましたが、私が今存在することの意味が、この上もなく素晴らしいことだと心底より解釈できれば、私は今しか生きることの出来ない針先の上の存在であっても、通り過ぎる瞬間瞬間は薫風のように人生を豊かに導く風ともなろう。


le 30 samedi 土曜日
//なかなか活動的でありました//午前中は大掃除、午後は施釉。明日は一日のんびりしようと思います。

最近、インスタで新しい言葉のアカウントを作りました。月に4本はupします。例えば一か月に一本だと年に12回。これでは季節の移ろいを描写できません。月初と中頃に二本づつ。つまり明後日には二本上げなければと思うと、私は寝るまでに詩人ならなくてはなりません。

毎年、大晦日には私的十大ニュースを挙げているのですが、少し見返してみましょう。


le 29 nvendredi 金曜日
//色気・凄味・気品//私がこの世に存在するのも、最も長くて50年ほどなのでしょうか??それより早く他界するかもしれません。こればかりは分りません。
国立公園の絶景は想像を超えた長い年月の賜物。そんな時間があるなら悠長に構えていても問題ないのですが、人の一生は短くて、なおかつ51歳。

だから、作るとしたらある種の鬼気迫る姿を具現化せねばと思うのです。それは妖艶に律する旋律があって美しい。只ならぬモノ。こういうものを生み出さねばと強く思う。
残された時間が短いのだから、私は我が魂と全力で取り組みます。

全てを動員し表現する。これは大それた発言のように聞こえるかもしれませんが、他の陶芸家も鬼気迫る気迫でもって夢の中でも作陶する人たちばかりです。

//最近起こった三つの事//いづれもネットにおける不思議な事。youtubeで偶然にも発見し、しばらく見入っていた人が、二人なのですけれど、既視感がある。何処かで会っていたような。次に、つい最近、この曲を知ったわけです。素敵だと思い何度も聞いていたら、これも不思議。
chipsという複数形を中学の頃、先生が好きな歌手がいると、まさにこのグループを取り上げ例えていたことを。でも、このジャケットに既視感があって、、ですが授業中でコレを見ることなどあり得ない。

人の記憶は都合の良いように解釈するのか、それとも誰かの眼球に入り込み経験を我がものに取り入れるからこそ、ありえない既視感を覚えるのか??こういう不思議は、その人たちの発信が私の胸の深いところに到達する感慨とか感動があると引き起こされます。他人の空似とも言いますが、人生に起こることは全て私に意味があり良い事であると解釈するなら、不思議な因縁を覚えるのです。


le 28 jeudi 木曜日
//これに尽きる//何年も聞いています。そもそもupしたの私ですし。年末の、いや年末に限らず人生の在り方というか。素晴らしいので是非お聞きください。



本日は作業場の大掃除。年内の活動は、施釉・本焼きのみとなります。
作るのは来年になりますが、素晴らしいアイデアが思い浮かびました。全く、私は恵まれています。作陶を行うのは私ですが、それは私の身体を使うという意味においてで、発想は天から降りてきます。

親の後ろ姿を見て陶芸を始めたわけではない。なのに、全くの素人が思いつくのは無理であるかのような発想の数々。

宇宙とは、この空の上にあるのでしょうが、そこに行くには、まず雲の上を登るのでしょうか??  私は思う、この肉体の中。大宇宙の感覚を得るには我が身を澄まして、意識を向けると、この皮膚の中にこそ無限の世界が広がる。制限された我が肉体であっても海女さんのように潜ってみたら、皮膚などそんな境界は存在せず、ただただ大宇宙が広がる。意識は広大無辺なのだ。

我が人生に残された時間を考えると、20代の若者の半分程度でしょう。これを考慮したうえで、陶芸をする魂の意味を考えるなら、国家総動員法ではありませんが全てを投影する意気込みであって、ようやくまとまった時間が確保できる。
だから退職したのだ。残された時間を考えるなら、勤労時間が陶芸でなくてはならない。こうなると仕事が趣味になってくるので、さらに時間が得られる。職住一体なのも嬉しい。身体を休める時は販売に当てれば良いし、会話の相手はお客さんで良い。全てを捧げる。
全てを捧げてようやくまとまった時間を得られるのだから、そりゃあれだけ好きだった斜面集落探訪や地方都市で過ごす週末もきっぱり卒業できたと思います。

一方、全てを捧げるからこそ48歳まで会社員であったと思う。あれはあれで最大限引き延ばし、するべき事をした。最大限引き延ばし、次は最大限捧げる。こういう生き方も天の采配というか、須らく最善で良きことであったと思います。私は、恵まれている。



le 27 mercredi 水曜日
//同志//本日は東農と瀬戸に原料調達。その帰り、3月までお世話になっていたところに顔を出す。これより最も忙しい時期になるので陣中見舞いです。

20分位お話をしましたが、同志ですね。陶芸が好きで好きで夢にも出てくる人たち。愛おしい人たち。仲間たち。

でも、こういう前後の関係もまもなく消滅する。来年は、本当の意味で大海に出る一匹の魚です。


le 26 mardi 火曜日
//modern//本日はモダンを意識して制作しました。保守的な私にとっては、それは貧相であり怠惰のような気もしていましたが、意匠における殻を破るというか、更に高みを目指すなら、洗練されたモダンを作り出せることも大切な要素だと思います。

モダンな香炉。洗練されたモダンな香炉。鳳凰とか乗せることの無い香炉。


le 25 lundi 月曜日
//素敵なM野さん//愛知県に多い苗字らしいのですが、やはり愛知県出身のようです。ハートを奪われたのが、長野県下伊那郡根羽村で英語の先生を。根羽村で一気に親近感がましました。信州はともすれば北信ばかり注目を浴びますが最南端の村です。ですが、少し前退職して世界旅行を。

この人の英語の発音が全く見事で、本日は一日中聞いていました。



生き方が、信念と同軸の人。こういう立ち位置に立つとモーセの出エジプトではありませんが、その人のために海も割かれて人生の道が用意される。

溢れ出る程の健全さ。力強い純粋さ。全くの年下ですが、心の師です。


le 24 dimanche 日曜日
//日曜日//日曜日らしいことと言ったら朝の8時まで寝ていたことくらいです。それから食事時間を除いて、ほぼ全て作陶。

今年最後の日曜日かと思いきや、もう一回ありました。大晦日は日曜日。

今年は激動の年かと思っていましたが、拠点が名古屋なので激変という感覚はありませんでした。来年は、今年より味わい深い年になるでしょう。そして、何処かの段階で新しい拠点に絞られる。これが何年先の事なのか分りませんが、その時は、命とか我が人生とか、長い視点に立って、また格別な味わいもあるのでしょう。

この世に生まれたと言うことは、次の三つを背負うことになる。誰一人例外なく。
①必ず死ぬ
②人生は一回
③いつ死ぬか分らない

当たり前すぎて、微塵たりとも考えませんが、この三つが頭に浮かんできたなら、残された人生はそんなに長く無いのかもしれません。気づいた時にはやり直す時間もないとするのなら、やはり意識的に思い出しては、毎日の有り様を真剣に見つめなくてはと考えます。そうは言っても具体的に何をすれば良いか??答えが無い場合は、今を真剣に、この繰り返しなのでしょうが、その今に疑問を抱いているのなら、これは人生の質という意味において大問題。一回きりの人生だと、まずは思い浮かべて、それに反しない過ごし方の模索。

哲学だと思う。自己流の生きる意味の哲学。


私にとって、生きている意味は、私に存する複数の魂(前世)を、我が人生において溶解し一つの魂として捧げる事だと考えています。大前提に我が死生観なのですが、父母・御先祖様の存在があって、魂を受け止める器(肉体)を頂いた。この時、私に舞い降りた魂は単体ではなく複数ある。場合によっては、人生の途上で受け入れる魂もあると思っている。これを大前提に生きています。この複数ある魂を我が人生において溶解し、一つの魂として再び昇天させる。

なぜ、このように考えるかというと、人間、死んだ数だけ魂があるとするのなら、あの世において無限に増えつづけるだけ。自然の摂理として、増え続けるだけという一方向のみと言うのが万物の仕組みの上でも不自然過ぎる。これを考えたことがあって、頭に浮かんだのが、上記の仕組み。

この考えに立脚するのですが、では私がすることと言ったら、それは纏め上げて一つにする魂の質の向上。生きるとは、複数ある魂を我が人生において溶解し、質の高い一つの魂として再び昇天させること。

これ以外の答えは無いと思っているので、ただこれ一点のみに絞って、今を全力で生きる、こういうことになっていきます。弱音とか怠惰とか、命の、生活の、魂の質を低下させるような心の動きには常に警戒し、何事も積極性を持って挑むべきであるし、その拠り所は、私は一人ではないということに気づくこと。死ぬまで複数の魂が存する存在なのですから。

最後にもう一つ重要なのは、更に大いなる存在に気づくこと。私の場合では、魂を昇天させる先の存在。これを認めるが故、この大いなる存在もふくめた魂の循環。その一部としての我が命(人生)。 この偉大な仕組みにも心を寄せて、大循環の途上の存在であるという大いなる信頼を感じ、祈るなら、この世界に向けて。
 


le 23 samedi 土曜日
//美に関する鉄則//人の顔色を伺って自らの評価を変えること。私の勝手な基準ですが、これをする人は心底軽蔑してしまいます。これだけは絶対にしてはならない美に関する鉄則。美しいということさえ、自分の基準で表現できないってのは人間ではないと思う。

かなり手厳しい発言ですが、好き嫌いの自由は尊重されるべきです。上記の発言は、その好き嫌いの自由を放棄した行為であるからです。だから、笑われても良いのです。嘲笑でも受け止めます。笑いたくなくても付き合いで笑う人は、その場に存在する理由はない。

何故こんな事を書くのかというと、人間の存在は尊いもので、各自に素晴らしきところがあるのですが、人間の真の交流というものは各自の得意の交換であると思うのです。ここに審美眼の曇った人間が介在すると、この枠組みが成立しなくなる。

各自がその才能を開花させ得意の交換をする。それぞれが良きと思った対象に近づく、全く曇りなき行動基準。嫌悪に近づくことは必要ないけれど、行為に蓋をすることは、嫌悪に近づくもう一つの道だと思っています。


le 22 vendredi 金曜日
//今だから思う一年目//卒業してから、まだ一年も経過していませんが年の瀬なので思います。入学よりも在学よりも卒業して一年目の身の振り方。これが大変に重要なものであると、今だから思うのです。
三月になれば二年目になりますが、二年目は二年目で別なることを言っているのかもしれませんが、ある集団から脱却した時、自由を得るのだが、その自由の采配こそが大変に重要。

何かに属するってのはお城の中の武士のようなもので、外堀内堀に守られている反面、代償として自由ではない。外に出るのも許可が必要で殿さまは絶対的な存在で、いざ戦となれば意思に反しても、同意できない戦術でも従わなければならない。
一方、私みたいな存在は猿と呼ばれた藤吉郎みたいなもので自由に市を野山を駆け回る存在。身の置き所処し方にルールもない反面、一つ一つ選んでいかなければならない。

だから、ますます祈ることの大切さを覚えます。私に堀を築けというのなら、まさに祈ることによって精神的な強さを構築すると言うことです。


le 21 jeudi 木曜日
//歩きました//宝くじ購入と古書店巡り、そして散歩なのですが名古屋駅から伏見まで、瑞穂運動場西から御器所まで歩きました。夜は前職の親しき先輩と食事会。今年もまた奢って下さり、ありがとうございました。
古書は三冊購入し、買い忘れは一冊。その買い忘れですが、趣味が特殊だけあって、誰かに奪われることはないだろうという安心感もあり年明けに買い求めようと思います。


le 20 mercredi 水曜日
//ずっと前から//30数年前からやってみたかったことを、今、行い始めたところ。インスタに別アカウントを作りました。(インスタの現行プロフから入れます)まだ宣伝はしていませんが、自然増の動向を見ている段階。
正確に言うと大学の四年間のみ行っていました。それを再開したと言うことになります。

美しい文章を書く時、これはとても立体的な行為なのです。ジャングルジムのように色んな方向の言葉、単語が持つ方向性があって、それを崩れないように、いや美しく立脚させるように配置していく。脳みその、オデコの後ろ辺りをフル回転しているのが分かります。陶芸に没頭する時も、同様な脳細胞の活性化を覚えますが、これに類似する行為。

陶芸を始めて13年になろうとしていますが、これも13年来の思いです。芸術家としての活動。私にとって、それは陶芸と文筆であるのです。共に美しき表現を別なる方法で世に生み出す。

昨今、一般の文筆みると、照れ隠しのような自分を卑下する文句を添えて作品を構成するような、なにかその魂を全力でぶつける行為を、何処か恥ずかしく思いながら書く傾向があると思うのです。笑われることやネットの誹謗を予め予防するかのような、有名人でないのなら、一歩も二歩も下がって書くのが処世術であるかのような。

私は、今この立場にあっても、全力で美しく表現していきます。無名なのに、何それ!と言われるくらいで丁度良いと思っています。誰かの顔色を伺って、言葉を選びなおすのは、芸術でもなければ美術でもない。もちろん文芸であっても。

素晴らしい螺旋階段を登り始めたと考えています。陶芸で疲れた時、袋小路に陥った時であっても、もう一つの表現で美を世に生み出すことが出来る。今日も、カインズや歯医者に行く道中であっても、美しい言葉の次回作を考えている自分がありました。とても健全であり幸せだと思っています。

いつかの日記で、私は詩人になりたいと書きましたが、本日の日記の事なのです。
私という人間は陶芸家ではない。美しい言葉を紡ぎ出しながら陶芸もする芸術作家であって、それが作品であると。好きと美しいが寄り添う時、歩幅は大胆になってくるものだと、日々何度も感じ入ることがあります。


le 19 mardi 火曜日
//謎の菓子//島根のスーパーでは【わかめ菓子】なる謎のワカメの加工物を購入。さっそく開封。
塩漬けしたワカメに砂糖と塩とトレハロースのみ。都昆布のワカメ版ではありませんでした。ワカメなので肉厚でもなく、海苔に近い食感。仄かに磯の香りがある甘しょっぱいワカメです。

作陶は4時間ほどする。明日は歯医者などあり明後日は夜に秘密忘年会。合間合間の陶芸となりそうです。


le 18 lundi 月曜日
//竹島は、島根の宝、我が領土!!//念願の竹島資料館に行きました。沢山、パンフレットがあるのですが、本棚に納めても良い本にして無料配布の方が良いと思いアンケートに書き込む。かなり中立で公平な客観的展示で日本の主張を展開。これが韓国側の同施設なら歪曲の極みで、嘘を刺激的に憎しみで焚き付けた内容だと思うのですが、こういうところが韓国の発展のブレーキになっているってのは、激しやすい民俗性もあって滅びるまで分らないでしょうね。ただ、現実は韓国の不法占拠が続いているので、日本側の対応は客観的であっても、紳士的すぎて韓国には何のダメージもない。不法占拠を続けるなら、続けるだけ不利益が発生する仕組みを作らねばと思います。

20時過ぎた頃には帰宅。家まで送って下さり、これが故、買物も沢山出来まして有難いことです。
また旅行が出来るように本業の方も頑張って参ります。

味わい深い令和五年の慰安旅行でしたが、味わいを更に重ねた旅となりました。楽しい二泊三日、ありがとうございました。


le 17 dimanche 日曜日
//タケル//始めて神楽というものを見ました。小さな舞台で迫力の演技。昔は秋祭りの一回しか演じられなかったと。島崎藤村の『夜明け前』でも、舞台(歌舞伎)の話は、村の最大の催しで楽しみごととの記述が印象的ですが、どちらも民俗芸能ですね。地元民が演じて地元民の娯楽と成す。
江津の会館で見たのですが、そんな古の情景を思い浮かべながら拝見させていただきました。
それにしても日本武尊を演じた人の長い長い口上ま全く見事でした。熱いものを感じる。

この日は松江の街中で泊まりました。これまた秀でたお宿で心地良かったです。


le 16 samedi 土曜日
//交通社夫妻との島根//今年、旅をしたのは二回なのですが、そのどちらとも交通社夫妻とご一緒。最も秀逸な内容で、かつ最も心地良い。毎度のことですが全幅の信頼があるので、最上級のおんぶに抱っこ!!
深夜の1時にお迎えしてくれて、ひたすら西進。宿は、島根の定宿、湯抱にて。こちらも気心知れたお宿で、心身共に生き返りました。

マダム焼を宿の女将に奉納。これが二回目と言うのも嬉しいことです。

令和5年は私にとって激動の年でした。本来ある山の一つが遅延にて来年もドラマチックな日々になるのでしょうが、この思いで深き令和五年の、癒しの旅でもありました。この思いは夏の旅行を大きく上回るものです。

交通社夫妻には心底感謝です。旅の手配という意味ではなく、我が人生において知り得たこと。これにより、どれだけ人生に潤いが生まれたことか。感謝の上にも感謝です。ありがとうございました!!!!


le 15 vendredi 金曜日
/珠玉の名曲//この官能的で熱情的な旋律と歌声。私の作品も、このようなオーラを発することが出来るよう、見た目にも只ならぬ気配を感じるようなものを作ります。


le 14 jeudi 木曜日
//プロフィール見て//インスタで新しいアカウントを作りました。詩人のページです。詳しくは、現行のインスタプロフを御覧下さい。ずっと前から、美しい散文や詩などを書き綴るアカウントが欲しいと思って、ようやくです。

美しい詩なり文章を書く時、私はこれを立体的にとらえます。普段とは違う脳の部分が熱くなっているのも感じることができます。それくらい活動的な事なのです。


le 13 mercredi 水曜日
//来年の今頃は//今は、たまに行く新工房ですが、来年の今頃は行ったり来たりの二重生活でしょう。当初の予定より一年遅れていますが、これも最善の運びなのかと思っています。

何処に行っても美しい心を持ち続けたい。そのためには詩人になるべきだと思っています。美に触れるのが轆轤だけでなく、平素の生活の頭の中にあっても準備万端になるよう。
これから私は、どの様な自然の描写をするのでしょうか? 人生がまた動き始める予感を覚えるのです。


le 12 mardi 火曜日
//奇跡の柿の木//我が家の柿の木は今年は大豊作。どれをとっても大きくて甘くて、不思議なのが無農薬なのに全く害虫の被害もない。信じられないことです。鳥害は、天麩羅を抄う網を枝に掛けただけで、これまた被害ゼロ。

考えられるのが、今年の熱波で害虫が一掃されたのかと。それとこの5-6年ほど前からナメクジを見かけなくなりました。今では一匹も発見できません。これも熱波の影響かと思います。
昔は冬に枯れ葉や枯れ枝を庭で燃やして、土の表面を熱殺菌して虫を殺していましたが、時代がそれを許さず、増える一方だった害虫も、昨今の夏の熱波で土が消毒されたのでしょうか??

本日は釉薬と粘土の再生だけしました。


le 11 lundi 月曜日
//分析してほしい//全く想定外の夢で目を覚ます。ふつうなら昨日までの企画のことや陶芸の夢だと思うのですが、うなされて目を覚ました内容は、前職の夢。それも丹Gと呼ばれる人からの仕事上の非難を、それも責任転嫁的な非難を受けて目が覚める。どうして、今になって、クリエーターズマーケットを終えた直後の夢が、こんな内容なのでしょうか!!!!

本日は島根向け特別窯を焚きました。水曜日に焼き上がりが分ります。

//言葉//ふと思った。言葉って凄くない?と。そりゃ言霊と言われるわけだわ!!と。
全く、姿形も無ければ重さも色も匂いもない。なのに、高度な内容であっても意思が相手方に伝わる。全く当り前に使っていますが、人類に言葉があるってのは、人類の特権。こんなに便利で偉大な内容を持ち合わしているなんて、人類って特別な存在と思ってしまう。

思っていることを言葉にして対外的に詳細に説明するなんて、他の一切の動植物には無理だと思うのです。有難く思ったことは今まで一度もなかった。この歳にして改心。有難いと思って言葉を発しましょう。


le 10 dimanche 日曜日
//令和五年の〆//3月から方々に出店しましたが、本日が令和五年の〆になります。前日の反省を踏まえ、レイアウトを少し変える。客足は圧倒的に日曜日の方が多かったのに単日の売り上げとしては今年最も多くて、本年最後の企画も黒字で終えることが出来ました。ただ出店料が高いので利益の幅でいうと、輝かしい成果ではありませんが、ハードルが高い環境において善戦したとは思います。

昨日今日の企画は、心の中で今年の総仕上げと位置づけてきました。そのための制作や準備も特別態勢で一月の間出店も控えて専念したほど。カレンダー通りの生活ではありませんが、曜日に関係なく懸命に頑張った令和五年であったと思う。まだ20日残っていますので、以来品の制作など、これに割り当てたいと思います。


le 9 samedi 土曜日
//初日//初めてのクリエーターズマーケット。設営する時ってのは、本当に楽しいです。今回は会場が港区なので17km移動すれば良いだけ。そういう意味でも助かる企画です。
港区でも、海岸に近づくほど人家というものが無くなり、でも田舎ではなく、それぞれの建物が大型化し、金城ふ頭に着くころには、名古屋にこんなところがあるのかと、視覚的に17km先の映像とは思えない不思議な感覚。

今回は出店料が高く、かつ面積が小さい。よって二ブース確保しました。この強気が売り上げに見合わず結果として苦戦の土曜日。微妙な感想を述べるほかない。


le 8 mardi 金曜日
//失敗の連続//出店前最後の窯出し。ほぼ全滅でした。11月からこの展時に向けて制作しましたが現時点での最大の収穫はあらゆる種類の失敗を経験したこと。これは私を強くするものではありますが、二度三度の同じ失敗は改善すべき反省点。根底にあるのは、なにか忙しくデンと構えて作らなかったことにあると思います。

今年の三月、瀬戸での学びの日々を終えました。それから自分なりに試行錯誤の連続で今に至る。明日からの展示は令和5年の私の集大成です。スマートな制作ではありませんでしたが、懸命に作った一つの結果ではあります。峰の頂とか、全く遠方にある現時点ですが、明日明後日は、全てを委ね私はただニコニコしています。良き御縁はあるべくしてあるものだから、大きく受け入れる器を心に携えて。今に至るまでの日々、深く感謝するものです。


le 7 jeudi 木曜日
//今を受け止める器//先祖崇拝は大切ですね。「今」という瞬間を受け入れることが可能なのは、この肉体という器があるから。我が身が無ければ、連綿と続く「今」の一つさえも頂くことはできない。こう考えると父母への感謝と先祖崇拝は信仰の如何を問わず必須なのでしょう。

では、我が身が潰える時、それは死なのですが、現世では肉体の死と同時に「今」を受け止めることは不可能になる。可愛いムクちゃんが亡くなってから、毎日のようにムクちゃんを思い浮かべる。その時、ムクちゃんの魂は私が思い浮かべる生前のある時期の姿です。でも肉体は先に滅んでしまった。仮に魂との再会があるとしたら、見えていたり、生前の姿形を想像するなら、それは私の幻視というか勝手な思い込み。

ほんとに数日前のことですが、可愛いムクちゃん然り、先に旅立たれた人など親しき人を親身に思い浮かべるなら、姿形のことは忘れて気配が近くにある、気配と対面している、そんな感覚で接する方が、実はより確実で身近で親身だと思うし、それこそ対話の内容も正確になると思います。

その今ですが、私たちは一秒の過去も未来も歩幅を前後に動かすことはできません。ただ当り前のように、今が連綿と続くのを疑いなく思っているだけです。何故、こんな事を書くかと言ったら、パレスチナの人は、ある瞬間でもって、その今が、これが最後と、人間に必要な今の信頼性・密度が顕著に脆くなっている。もし、第三次世界大戦になったら、【脆い今】の面積は世界に広がり、隕石でも落ちようものなら地球を覆ってしまう。視点を変えれば、宇宙から地球を見れば、今、今が消滅した点が、瞬間点灯するとして、その光の瞬きは世界のあちこちでパチパチ点滅していますが、パレスチナでは異常に濃密で、東日本大震災の海岸線では異常な光の帯であった。

今は決して安定的なものではなく、夜に寝て目が覚めたなら、今がある事への喜びと感謝は日々持ち合わせたいものです。

今を受け止めることが出来る我が肉体に感謝。そして、この肉体は魂の乗り物。私を乗せてくれる自分を労わることの、なんと大切なことよ。


le 6 mercredi 水曜日
//今回の最後//出店前の最後の本焼き。11月から懸命に頑張りましたが、その半分以上は失敗です。一輪挿しに比べて使う粘土が多いので、失敗は痛いのですが、壮大な失敗絵巻でもありました。でも、こういう段階も経なくては成長もしないでしょう。

陶芸家にとって独自の釉薬は秘伝のタレのようなもの。令和五年の私は、その存在など全く知れ渡っていませんが、誰にも負けない釉薬を数種類取り揃えたので、百万の援軍を得た感があります。


le 5 mardi 火曜日
//24時間断食//思い立って24時間の断食をしました。昨日の晩御飯の次が本日の晩御飯。難行苦行でもなく、24時間なら気楽にできるものだと。いつの日か48時間断食をしてみたいものです。


le 4 lundi 月曜日
//休める//胃袋を休める。眼球を休める。そろそろ断食しようかと思います。今日は早く寝て、明日は買い出しかな。


le 3 dimanche 日曜日
//優しくする・助ける・感謝する、自らを労わる//外にあっては【優しくする・助ける・感謝する】内にあっては【我が身を労わる】 日常はこの枠の中で収まりたいものです。

ところが、外に出る生活をしないものだから、接点がない。自分の身だけ労わっているようでは片手落ち。こういう場合は、外への祈りでもって接点を持たねばと思います。記憶の中にある人で、助けが必要と思われる人、せめて一人くらいは思い起こして、彼のために祈ることは日課にせねばと思います。

昨日の日記でも書きましたが、ウトウトとして頭の中に膨大に思い描くことが、実は数秒程度のことだと考えると、夢のような穏やかな脳波で現世の数十倍もの圧縮した物語を描くことはアンバランスだと思います。穏やかなのに、やっていることが忙しすぎる。思うに、夢と言うのは、次元の違う世界を垣間見ているのではなかろうか。地球の1秒がその世界では50秒100秒であると。これは信憑性があると思いますよ。だって夢は見ている時、現実離れしていることであっても、その時は疑いもなく見ているのですから、実際に目の前で繰り広げられていると。


le 2 samedi 土曜日
//今がある//今、この瞬間を大事に一生懸命にと何度も書きましたが、核心というか肝心なことに気が付いていませんでした。何に感謝するかと言ったら、私には、この今があると。今が与えられていることに、感激せずにはいられないと気が付きました。今まで私は、根本を見ることもなく御託を並べていたのだと。

死んだら今は無い。その死は必ず訪れる。時期は全く分からない。
「もうこちらに来る番ですよ」と言われたら、この世での今は永遠にない。そして、この今と言うのは全く自由である。どんな境遇にせよ、今の瞬間で見るならば、誰にも束縛されないと気が付きました。極論を言うと目の前で惨劇や悲しいことが起こっても、それは今をつなぎ合わせた帯状の時間によって惨劇だの悲劇だのと理解し反応する。これを細分化し、今という瞬間にまで縮めた場合、目の前の寸劇は劇として成立していないのだから訴えかけようもない。

意識を今という極所に置けば全く純粋で自由なのだ。他の介入も無い私の意思が純粋に及ぶところ。

この極所的今の純粋さには力があると思う。夢は長い夢のようであっても、冷静に考えれば数秒の間の出来事のように思う。日中、ついウトウトと思考が全く別なる世界に行き、なにかしら見たり感じたりしていても、カクンとなって我に返る、ともすれば2-3秒の事であっても、別世界の感覚はこれより長かった。

この夢こそ他の介入の無い純粋な境地で、短くとも内容は圧倒的に圧縮され感覚としては長い。今の瞬間も同じで他の介入がなく純粋に私だけの意向が働くなら、今という瞬間の影響力は圧倒的に強く、感覚としては今以上に及ぶと考える。これが未来の方向に伝播するなら、力強い今を持ち合わせる人は、常に数秒先の未来は予見されうる範囲なのだろう。


le 1er vendredi 金曜日
//こういう道かと//失敗が続いていますが、心に道が思い浮かびます。新工房で創作する時、今と違ったものを作ります。美術作品に重きを置きますが、この壮大な作品に今挑んでいる工程が欠かせないと。今現在との共同作品になります。

今なんですよ。今の積み重ねしかない。その今を夢中に生きて夜はぐっすり眠る。
今しかないのだから、誰それのことを思い浮かべては彼是考えたりするのは、全く今現在とは相容れない行動である。今、目の前のことに夢中になれば、それ以外のことは考えられない。その継続が大切だと思う。もっと純粋に無邪気に。

今月も月末は私的10大ニュースを書きますが、今年は充実しています。





 
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