令和6年12月décembre.2024

le 31 mardi 火曜日
//私的重大ニュース10本+次点//順位なし
●ゴミ拾いつま先ウォーキング
   限られた運動量で効果を最大限に。心の中では可愛いムクちゃんといつも一緒で。
●古書蒐集
   陶芸以外にすることは、古書店に行き買い集めることだけ。今年も大量購入。
●孤独道極める
  今年もまた寂しいという感覚が一切湧かず。交友関係も極小で僅少。
  会う人少なければ、その機会も僅か。
●変わることを選ぶ
  月から地球を眺めれば、日々おびただしく表情を変える。この星で生きることは変化の量の競い  合いなのだと、これが務めなのだと考えるようになる。迷ったら変化を選ぶ。
●天磁結晶釉薬の開発
  黒いのですが光の粒が踊ります。
●電気窯二台購入
  二台とも還元対応。試運転は来年。
●学び直し
  陶芸に疲れたら、学び直し。日々、勉強。
●鼻うがい
  効果覿面で、目ヤニ耳垢の劇的な減少。
●自分が何歳なのか分からない
  とても若々しく感じるのです。定年まであと何年とカウントすることが無くなり生涯現役であると決  めたとたん、すべきことも多く各方面で一年生。
●夢中の偉大さ
  夢中こそ生涯私を支えてくれる百万の味方。陶芸の基本は、夢中。生命の基本も、夢中。
【次点】浜松(ソラモ)卒業
  出店活動の起点でもあった浜松ですが、これに固執するより広く外に出ることを選ぶ。



草木や動物の視点で考えれば、確かに一年を感じるではあろうが、どこを起点とするかは、さして問題ではない気がする。暑くなってきたら、前の暑さから一年が経過したと。ですが、どこをもって1月1日とするかは、全く考慮されていないと思う。人間は暦を作ってしまったので、大晦日があり元旦を決めてしまった。よって生物学的には、なんの影響ももたらさないのに、大きな区切りとし、私は先ほど重大ニュースを記したのであります。

明日から令和七年となりますが、何かを決断するのに、起点はいつでも良い。思い立ったら吉日とは言い得て妙で、我らはどの瞬間からも歩き始めることが出来るのだ。

孤独孤独と書き綴る日記でありますが、大いなるものに守られている感覚はあります。この感覚がある故、孤独とは名ばかりで私は全く寂しさや退屈を感じないのでしょう。この肉体は一つではありますが、この肉体に宿る魂は一つとは思えないのです。多くの魂が私の肉体を通して一つの作品を作り上げる。よって、私が亡くなる時は魂は一つになりますが、それまでは各々得意とする能力を持ち寄り、半生を経て私は陶芸で生きると決めたので、これからは、くべる薪のように各種才能を陶芸で人生が謳歌できるように注いでくれると思うのです。

と、少し前まではこのように思っていましたが、今では、この仕組みは至極当たり前であって、この仕組みの私が日々如何に宇宙と強く一体化するかが、実に深く大切なのかと信ずるのです。ここで宇宙と書きましたが、他に言い様が無いのでそう書いたまでで、存在の大本というのか、根源というのか、このような仕組みを創造した【仕組み】

と、大きく書きましたが、視野を原寸大に戻すならば、この世に生まれた意味になります。人間として、この世に誕生した意味。それは教えてくれるものではありませんが、その意味に到達できたものと、考えもしないものにとって、一日の濃度は違うと思うのです。同じ365日ではあっても、本当にそうなのであろうかと。

同じ木でも太く育つものもあれば細い木もある。魂の太い細いも同様ですが、問題は、太くても細くても当人は実感しない。ただ大都会で群れる群衆に、それは細い木の集合体にしか見えない、そういう時もある。

人間は増えすぎてしまった。密林を思えば、細い木は種を守るために朽ちることを迫られる。選別する時、魂の太い細いで、増えすぎた人間の調整は自然の摂理のように迫るものだと考えるのです。いつの日か、日々、夢中で生きているかどうかで、大きな変化が発現されて行くのではなかろうか。

今、頭に浮かんだのは、例えば夢中で生きていない人に、この大量に浴びる電磁波とか食品添加物とか暗いニュースが鬱的な人間を大量に発生させるとか??全くSFの世界ですが、日々楽しく情熱的に生きる者に病的なものに対する抵抗力は強いと思うのです。

毎日心から楽しく生きている??との問で道が分かれる、そんな未来を思ったりしましたので、書かせてもらいました。このような内容になるとは努々思いませんでしたが、頭に湧いてきたことを書き連ねたら、この長文でこの結論。 

これからお寺に行きまして、除夜の鐘を撞きに参ります。
思いを巡らす全ての人に感謝申し上げます。ありがとうございました。


le 30 lundi 月曜日
//餅つき//朝から正午前まで檀家のお寺さんへ餅つきに。なんて疲れる作業でしょう。明日か正月には筋肉痛になりそうです。皆が和気あいあいと、人種も様々で素晴しい環境でした。ここに集う人は善良であるとの前提があるのでしょう、子供たちも純粋無垢で知らないおじさんに話しかけられても元気溌剌の応答。

そこで思うのが私の生き方との関係性。私は孤独道を邁進しまして、それがとても心地良いにもかかわらず、本日の餅つきの光景には心打たれるものがありました。相反する心象の同居ですが、考えたのは、人との関わりあいとかは、この環境のこの程度のこの頻度のものであってバランスが取れるのだろうと。

昔は孤独が平気過ぎて病気だろうと、そちらで気を揉んでいましたが、これは私の勤めであると思うのです。数多といる陶芸家の中から我が美を具現化して、広く世に提供するには、ある種の狂人でなければならないと信ずるからです。そして、この世界で生きると決めたら、各々が持つ狂気の競い合いになりまして、どれだけ美に狂えるかになってくるのです。言葉を変えれば夢中でありますが、狂気でも夢中でも、大好きなことに没頭し続ける。それが365日であっても足りないと言えるくらいでなければと、そのくらい陶芸に惚れ込んで、始めて競い合えるのだと思うのです。勿論、苦しんだり義務感が生じるようでは落第。そういう感覚は全く無くて、ただただ没頭し、この没頭の継続を願う日々。

さて、私は上記のような狂人に成れたであろうか?? まだまだだと思う。


le 29 dimanche 日曜日
//お風呂の大掃除//2.5時間要しました。結構、良い運動になったと思います。最近は時間確保のためゴミ拾い散歩は見合わせしているのですが、掃除は運動面で立派にカバーしています。

//夢のお話//孤独道を極めると、外的刺激が夢であったりします。日々の楽しみが毎晩見る夢。ところが、例にもれず覚えていない。それでも朧気ながら記憶を拾うと、見る夢は明晰夢というもので、夢と分かっていて、夢の中で行動している。(特に最近は、夢の記憶を覚え持ち帰らなければと、夢の中で意識している) 内容はてんでバラバラですが、本日ある共通点を発見しました。それは、見る夢全てが日本であること。過去でも未来でもなく現在ではあるのだが、別なる選択をした我が人生か、もしくは誰かの体験の中に入っているのか。江戸時代の夢もなければ、空飛ぶ車の夢も見ません。ただ世界は違うのだけれど、おそらく現在と並行しているかのような別世界。これが最近毎晩見る明晰夢の内容になります。

さて別なる夢の話ですが、ここ数年は見ませんが、人生において、見覚えのある夢、似たような世界の夢を、長い年月の間隔はあるにせよ、見ることがあるのです。
あ、この夢、見たことある!!と夢の中で実感する夢。何パターンかありまして、その中の一つは現実離れしていて未来的で宇宙的。円盤とか宇宙ではなくて、ピカソの絵のような、何て言うのか、ウネウネと枝分かれする、それも建築的にあり得ない、言うならばカセットテープがその容器からはみ出て絡まるような、恐ろしく立体的で、ウネウネと複数入り乱れて存在する、その道の所々に扉がある。私はこの空間で、あ、この夢見たことがあると思い、右に行ったり上や下に行ったりするのですが、扉を開けたことは無いと思う。この間、誰かとの接点や、何かの別なる要素と接したりもするのですが、毎回、この辺りで夢の記憶は無くなる。

だから夢は日中の記憶の整理という学説には同意しかねるものがありまして、夢とは、別なる選択をしていたら今頃は??というような、別に存在する現実を覗かせてもらっているような気がするのです。

これは特殊な能力でもなくて、最近、夜に一回、トイレに行くのですが、出来ることなら行きたくないと、かなり浅い睡眠が続くのですが、夢の認識はこの辺りにあります。結局、起き上がってトイレに行き、もう一度寝るのですが記憶の大半はこの辺りで消えてしまいます。

//夢を味方に//孤独一級の私にとり、閃きは大いなる援軍であります。その閃きを取りこぼさないようにするのが私の役割であって、閃きそのものは天からの授かり物だと思っています。さて、人とは違うような夢を毎晩見ていることはわっかったので、孤独一級の私は、夢さえも収穫物だと思って、その意味することをしっかり拾い上げ覚えていかなければと思うのです。日中の閃きと夜の夢を味方に出来たなら、私は毎日が収穫に溢れる豊穣の人生になると思うのです。

と、精神世界的な記述をしますが、私の釉薬の調合のあるものは頭に湧いた閃きで、その通りに実験をし、追加実験を二回ほどして完成させたりと、確実に並行して何かが存在するのだと確信しています。


le 28 samedi 土曜日
//可愛いムクちゃん//本日は洗車。内装も雑巾で吹きました。マット類も取り外しまして拭き上げる。するとどうしたことでしょう、濯ぐバケツの中に可愛いムクちゃんの毛が何本も。一つづつ拾い上げて大切に包みました。

さて、これは来年、車を買い替えている予兆かもしれません。ムクちゃんが、新しい車に乗り換える意思表示であると思いました。新車に乗って、さらに遠くに方々に出店などするも、それはムクちゃんも一緒だということ。

今年もいよいよ残り僅か。実り多い一年でした。来年は新しい窯の試運転から始めようかと思います。

私は心のどこかに、否定的な担当部署があって、嫌な思い出や、全く話にならないのが起きてもいない嫌な展開などを脳内で突発的に上演するのだ。 勝手に考え勝手に憤る。思えば、対極の祈りである呪いにも相当するような、兎に角、否定的なことは何でもするし力強い部署。これが自分の意思に反して湧き上がるものだから、ほとほと困っています。焼き払おうとしても、未だ否定の芽は出てくる。その都度、否定を否定する心理作業をするのだが、特に夢中で没頭していない時に頻発する。

ですが、これを含めての自分なのであります。この担当部署は力強いので、何とかして仲良く、良い意味で、その力を発揮してもらおうと考えている。例えば臆病風に吹かれたときなど、その臆病を呪いの力の転用で遮ってしまう。また臆病風に吹かれて、それゆえ前進を躊躇う相手方の心域にも入ってもらって、同じく転用の力で封じる。そういう事に得意になってもらい、憤るのではなく、憤る事柄自体を封じ込める頼もしい役割を果たしてもらい、私を構成する自慢の部署とする。

冒険は心の内にもあって、この強力な力を災厄を封じるものに、悪をも退散させる心の御社にしたい。もぐら叩きのように打ち消してばかりいましたが、それも私であると思うとかなりの可能性を潰していたことになります。彼には彼の良い役割を演じてもらい、総じて強い私を構成させたい。


le 27 vendredi 金曜日
//新工房//12月は月初に今年最後の出店があって、それから後半までの15日くらい、なかなか嚙み合わせが上手く行かず非生産的な日々でした。これは深刻な問題で一年の1/24を無駄にしたことになります。夢の中でも思案しないと、その時間の無さを痛感しているのに、この有様。一方、この間、学び直しを開始しましたが、実は、後々、この選択に素晴しい意味があるのかもしれません。全ては意味あることで、全ては凸凹を生じながらも螺旋階段で進歩発達していくと思っています。愚痴めいた事を書きましたが、意味あることだと認識するためにも、学び直しは継続しなければなりません。

今年は9連休の人も多いと聞きます。前職の頃、皆が事故なく無事に終えられるよう、日々祈りを欠かしませんでした。出社は毎日早朝で、会社のシャッターを開けるついでに手を合わせて今日の無事を祈る。朝の地下鉄でも祈る、夜寝る前でも祈る。仕事納めでは、特に長く祈り、でも、一番の祈りは長い休みが明ける直前、それも仕事始めの日です。その内容は、ただただ部署の皆が事故なく無事にその日を終えることでした。これを欠かさず続けて辞めたわけですが、今、祈りの範囲は私の活動の周辺に限られています。

何を大切にするかという視点で、以前は会社組織の私の部署でしたが、今は陶芸とその周辺。そういう生き方になったことで、始めて味わい深い日々になったと思うのです。これは前職批判ではありませんが、あの頃、どれだけ無事を願って、実際、そつなく過ごしたにせよ、果実を得るのも、その分量も会社次第。 祈ったにせよ、実際無事な日々が続いたにせよ、事故なく過ごすことが当たり前と冷たく退けられるのも事実であります。  

構造上の欠点があるとするなら、祈りの断絶。伸びる会社というものは、社長も部長も平社員も、業績の拡大を心から願う構造であり、祈りの断絶が無い。この仕組みが機能するためには社員の期待に沿う賃金の回答があり、社員を思う経営者の心の温かさも伝播して成り立つのですが、この成り立ちがあって始めて願望の一貫性が成立する。ところが、私が祈ったところで、上にも下にも同様の心理が働かない組織は衰退していくのでしょう。芽が出た草を見るならば、根も茎も葉も、願いを一つにそれぞれの役割を果たしている。

そこで私に戻るのですが、上も下もない構造になったので祈りの統一性が成立しているのだと。私に言行一致の日々さえ続くならば、そのような答えは必然だと考えます。簡単と言えば簡単ですが、全ては私の心一つで決まるので、結局は何度も言うことですが、夢中の継続、これに集約されます。


le 26 jeudi 木曜日
//小さな物音//階下からちょっと違いう物音が。父上に何かあったのかと思いましたが、人が倒れていたなら、その音にしては小さすぎる。3秒ほど判断に迷いましたが気になったので降りてみると倒れていました。メガネは破損し、眉尻からは流血。これが5mm内側だと失明とか救急車を呼ぶ事態でした。悲しみは、その姿よりも、小さくなってしまった父上の、転倒してもその程度の音。

年末の大惨事になる所でしたが、なんとか回避できたのは御先祖様のおかげだと思います。

広く親族を見渡しても、次に他界するだろう世代が親世代に迫ってきたことに、これからは毎年、いやいや毎月無事に過ごして行けれるよう、祈るばかりになってきました。ですが、これを遅らす事はできたとしても老いは迫り、最終的に回避することはできない。ましてや自らもまた老いていく。

つまるところ自分自身も含めて与えられた命を、その許される範囲で大切に活き活きと輝かせるのかが生きる意味ではないのかと50を過ぎて思います。両親への孝養含め、何事も一生懸命生きて、自らはそれで活路を見出し、魂を輝かす。これに勝る答えは無いと思います。


le 25 mercredi 水曜日
//高島屋・美術画廊//本日から31日まで名古屋駅のタカシマヤ11階の美術画廊で美濃茶盌展が開催されます。多治見と違って見て触って買うことも出来ます。と、いうことで自分の作品を見に行きました。

午前中は、年末の買い出し第一回目で午後から都市生活者。半日だけの小さなお休み。


le 24 mardi 火曜日
//新工房//朝から夕方まで原土精製⇒粘土 の作業。これが自宅なら連日、続きの継続ですが拠点が二か所になると、ある意味、不便も出てきます。ですが、どっちに居ても陶芸をし絶え間なく続けていれば、上手いリズムも体得することでしょう。

帰りは四日市で大渋滞に巻き込まれる。四日市の南北は構造的に麻痺していると思うので、川越インターから湾岸線みたいなものを南に分岐させて塩浜町の南辺りまで伸ばせは採算性もあると思うのですが。


le 23 lundi 月曜日
//夢とは//不思議な夢と恐ろしい夢を見た。一つは英文で一文頭に現れましたが、はっきり認識できたのは夢の中でも1秒未満で、夢の中で思い出そうとしましたが思い出せない。写真みたいな記憶力があれば、どんな内容なのか知り得たのに。

恐ろしい夢は口にするのも低劣で下品で不衛生な性行為。例えば薬物中毒患者も、最初からそうなりたいとは思っていないでしょう。自分は大丈夫だと思っていたら廃人の域。私も、人生でヤサグレたり不良の道に染まったなら、ひょっとしてそんな人生が展開したのかもしれません。夢は日中の記憶を整理するために見るとか聞きますが、全く何の関係もない夢を子細に見るのは、狂った選択ばかり選んでいたら、そんな世界の住人になっていたと、ちょっと覗いてみろと、人生の分岐の向こうの世界に立ち寄ったかのようです。


le 22 dimanche 日曜日
//信州お野菜特別便//いつもありがとうございます。言い忘れていたことがあって、レモングラスのお茶が美味しいということ。コーヒーの安堵感や味わいは秀逸でありますが、これをガブガブ飲むようでは胃は重たくなるし、コーヒーも安いものではなくなりましたので、代替を探していたのですが、これぞ清涼感もあって素晴しいひと時。

明日は、父上の付き添い、道具の仕入れ、工房の掃除、それとお勉強、忙しくなりそう。


le 21 samedi 土曜日
//心のカレンダー//私の自然的な感覚で書かせてもらうと、太陽光の増減で暦を作ってもらうのが、一番違和感が無いのです。

冬至に夏至、春分に秋分。
一年は四分割でき、そのどこを始点とするのか。私は冬至にしたいのです。

さて冬至に焦点を当てると、冬至は陰が極まる日であり、その翌日から日が長くなる。この視点で見れば冬至の翌日を一年の始点で見るのが自然なのですが、さらに正確を期すなら、冬至の日没をもって、新年としたいのです。つまりお正月は冬至の夜からはじまる。以前読んだ天龍村史では、年の入れ替わりの瞬間は、現代で言う大晦日の夜にあるそうです。その夜に当地では年取りとよばれる正月料理を頂いて、食べ終えてから見る夢が初夢。もちろん明治以前の太陰暦での大晦日ですが、明治以降もその感覚は残っていたそうです。

まるまる一年後ではありますが、次の冬至は、私だけの新年の行事を設けましょうかしら?? そうすれは先を制するというか、常に先陣の日々であって、後塵を期す生き方ではなくなるとおもうのです。


le 20 vendredi 金曜日
//学び直しで失うもの//読書の時間。先日、古書展で学生叢書が並んでいたのであるだけ購入しました。学生と読書 学生と芸術 しかなかったのでネットで一冊つ探すのかと思っていたのですが、かなりを求める事が出来ました。それを読む時間が無いのです。学生の頃にしっかり勉強していれば罹る事態は避けられたので自業自得ではありますが。


le 19 jeudi 木曜日
//何聴いている??//昔から、この質問が苦手でした。この記述は初めてだと思いますが、40年以上前からずっと一貫して苦手。答えられないのではなく、人と全く違うから答えても続きが無いし説明しようがない。

まず流行りのものに飛びつかない。自分が良いと思ったものを大切にし、それは例外なく話し相手の無い趣向。中学の頃で言えば短波ラジオから聞こえてくる社会主義国の勇ましい革命歌謡。高校も同じ。そうそう小学校の頃は、新日本紀行のテーマ曲とか正午前のNHK-TVの地元の天気予報に流れてくる曲。まったく回答しても相手方が困惑するだけ。30歳ごろからはフランスの音楽。ここ10年ほどは、それも70年代80年代のフランス歌謡。もう全くお話にならない。

そもそも探し出すところが違うのです。今はというと、アメリカの某ラジオ局を聴いています。。面白い構成で、70年代80年代のラジオドラマや陽気なルーシーの音声を当時のCMを交えながら終日放送してくれる有り難い放送局がありまして、それを真空管ラジオに繋げて再生。

こういう人と違う趣向は幼少の頃から方面は変われど一貫しています。思えば斜面集落探訪も私だけのことですし、今は戦時中より昔の古書を買い集める行動。仕事も陶芸になったし生き方の土台が人とは違う。これは生涯進む道だと思っていますが、幸いなのが理解されなくても私はどの時代でも楽しく過ごしているということです。孤独な趣味でありながら、全く時間が足りないと年中言っている。

だから、面子が足りないからとか居ると楽しいからという理由だけで呼ばれる飲み会とか、生産性もなく全く時間の無駄に感じて避けるようにしていましたが、とうとう全く忘れ去られた存在に仕上がりました。心のどこかで求めていた世界を構築したかのようなものであり、また強烈な個性を作り上げていくのでしょう。今は年に会う人も3人ほどで、それもごく限られた機会なのですが、このくらいの交友の幅が理想の世界です。


le 18 mercredi 水曜日
//かなり違うけど//物事に対する取り組み方で、私の勢いというのか歩幅を誰にも邪魔されず成し遂げるのなら、まったく人と関わりの無い環境で、山にでも籠るべきなのですが、実際はそうではない。諸々の因子、それは人の意思とかも関係してきますが、私の歩幅は慣れない調子に替えられることもあります。

つまり私の陶芸に対する思いは、人には理解しがたいところがあって関わる以上、調子は狂う。ですが、現実は今のそれであるのだから、これには深い意味もあるのでしょう。広義の意味では陶芸ですが、今は土とは離れろ!という思し召しだと思うようにはしています。先日の学び直しではありませんが、当面はそちらに重きを置けという導きであるのだろう。

よって、取り組む内容は変わっても私は真剣に夢中で過ごすのが、本来あるべき姿なのだ。


le 17 mardi 火曜日
//都市生活者//朝から24時間券を使用して都市生活者。と、言っても古書展巡りと喫茶店程度ですが、格安コーナーで素晴らしい本を10冊ほど買い込みましていったん帰宅。身軽になってもう一度。夜は【こっそり会】 どうもありがとうございました。大きく変わっているようで、そうでもないような。ただ確実なのは同じではない。変わる程度の幅であり方向性。

それにしても、孤独な日々とは対照的で、お話に花が咲く。それも昔とちっとも変わらない調子で楽しく過ごすことが出来ました。

そうそう、都市生活者とは田舎者以上に歩くのです。これが腸に良い刺激を与えまして、ちょっと酷い便秘であったのですが、桜山で生き返りました。


le 16 lundi 月曜日
//鼻洗浄//年末の私的重大ニュースの候補に挙がりますが、今年の出来事に毎晩寝る前の鼻洗浄があります。生理食塩水を温めて鼻の中に注ぎ洗浄する。想定外の効果に目ヤニと耳垢が激減しました。そもそもは副鼻腔炎を疑い、珍しく医者に行ったら、その様に診断されました。これは抗生物質で治ったのですが、併用して民間療法的な鼻洗浄も取り入れる。投薬は一か月ほどで終わり完治しましたが、鼻洗浄は毎晩の勤め。膿というか垢というか排せつ物は、熟成される前に排出して、膿や垢と呼ばれないうちにサヨウナラ。考えると脳に近いところの膿、それも内科的な領域での膿は脳神経的に危険だと思うのです。歯槽膿漏がアルツハイマーの原因にもなると聞きましたがこれと似た構図だと思うのです。その、毎晩の生理食塩水では梅肉エキスを薄めて使用しています。

本日は午前も午後も通院の付き添い。こうなると制作的なことは出来なくなるので昨日同様、終日学び直しの時間。

日中でも寝ている時にでも、なんだか平素の自分では考えられない光景というか閃きが脳内的に視覚化されたりします。全く時間軸の違った世界で、そろらく、それは1-2秒に満たない瞬間の閃きであるのですが、いざ閃きを再確認すると、とても長く解釈されるのです。こういう流れ星的な閃きが実は日に何度も通り過ぎているのかと、その気配を感じます。特に、日中に、そういう流れ星があったにせよ、夢と同様、すぐに忘却してしまう。先程も、脳内的に何か見たのですが、全く思い出せません。不思議なことは、幸運にも思い出せた場合、それは瞬間ではなく圧縮ファイルが解凍されるようにかなりの情報量なのです。

この流れ星を拾い上げることが出来れば、私は仲間と会社を立ち上げたようなものになります。仲間が提供してくれたアイデアを製品にする。こういうことは会社内で多くあるとは思いますが、孤独な陶芸作家であっても百万の味方を付けたような、有難い援軍。

でも、これは特殊な才能でもなんでもなく、どれだけ陶芸に夢中でいられるかに比例する現象だと思う。私が心底恐怖するとするなら、陶芸に情熱が見出せなくなった時。これは恐ろしい。こんな人間に流れ星は見えませんから、ますます塞がっていくのでしょう。

好きなことに没頭する。これさえ出来ていたなら、毎日は驚きに満ちた(流れ星の)輝きに溢れると思うから、誰それがどうのとか、どう思われているとか、忘却の彼方に追いやって、私に与えられた時間の全てを夢中で満たしていきたいものです。


le 15 dimanche 日曜日
//やはり時間が無い//現状、次の出店は三月の後半になりますが、やはり時間がありません。と、言いつつ今週は粘土に触らない日々でありましたが。来年から動けばよいとか、そんな甘い認識は身を亡ぼすものだと思いますので、寒さを厭わず果敢に前進しなければ。

そうそう、あれから菓子パンを食べない日々が続いています。それから学び直しを開始しました。それも広義の意味では陶芸に寄与すると考えますので仕事として真剣に取り組みましょう。

私は孤独と並走しながらも、これから諸々と発信していくことでしょう。youtuberのような動画発信者ではありませんが、それでも寡黙な陶芸家ではないような日々。もちろん、このような発信は人の目にもとまれば、何を言われるか分かりませんが、恐れたり気にしたり、そういう方面に意識が先行するようでは、その時点で負けであると思う。他人との勝ち負けではなくて時間に集中できない我が精神の負け。

でも、毎日毎日、こんな事を書けるのも孤独故だと思う。恋人がいたりホームパーティーを開いたり花見をする、そういう生き方は全く縁遠いものでありました。これから一か月ほどは、インスタとかに華やかな写真がどんどんupされますが、そういう集まりとかには縁のない人生。だからこそ一年中、彼是考えられる。それが20代からずっと続いています。

良かったことと言えば、死生観まで含めた哲学みたいなものは、久しい以前に心のうちに構築出来まして、孤独だから悲しいとか寂しいとか全く感じません。いやいや孤独を選ぶ魂の意味さえ感じていますので、道は定まっています。簡単に、【陶芸で魂を謳歌する】とは言いますが、この膨大で長い日記のどこかに、哲学的に詳述している箇所もあります。

結局我々は死ぬのです。いつの時点か分かりませんが、長くて100歳前後。私が0歳なら、まだ100年あるかもしれませんが、スタートは常に今。52歳からの余命になります。だから短すぎるのです。この世に生まれた意味を、残りの人生で成し遂げられるかと言ったら、そもそも、その命題に気づいていない人もいるだろうし、気づいたとしても、どうしたら良いのか分からないとか、なかなかスタートラインに立てる人も限られているのかと思う。そういう意味では私は幸せです。幸せであっても、それは進む道が定まっただけのことで、どれだけ先に進めるかと言ったら、全く時間がありません。明日で良いと先延ばししたら、それだけで船が沈むと思う。


le 14 samedi 土曜日
//孤独者の会話//本を読む時に学びがあると、一方的な文字の流入だけでなく、発見もあったと私の脳内からも信号が発信される。さて昨日の続きですが、学び直しは上記現象の顕著な例になると思うので、一人で会話しているような感覚になります。なるほど!!と連発する感覚。

心のどこかは常に未来にありまして、身内が次々と他界し、一人過ごす日々の永きにわたる時、如何に健全な精神状態で日々を送るかと、その試行錯誤は若き頃からするものだと考えています。例えば9モソでのハウリングも、老いの孤独を嘆く投稿を垣間見ます。我々はよほどの幸運が無い限り、関係性をどんどん削っていきます。

この対策として有効なものに都市生活者があります。それもかなり都会の、しかも一角。つまり老いた芸が集う社交場が経営できる人間の集積地であります。そういう選択をする芸は今後増えていくことでしょう。結局、人生観につながると思うのですが、避けられないのは芸は誰しもが孤独に進む。この大前提を前にして、何でもって充実を得るのか。その有力な回答が上野近辺に住むとか、都市生活者として事情ある者同士が集まっていく力学。そして、これを選ばないものは、個々人が独創的に立ち向かう姿を思ってしまいます。その中に私が居るのですが、昨日も書きましたように、私の場合は創作に読書に学び直し。

確信するのは創作のその先、読書や学び直しのその先にまた世界も広がるように思います。孤独は迫ると書きましたが、迫ってこそ開かれる世界もあるのかと。その意味で、私は今後、芸世界とは交差しない生き方になるのでしょう。(久しい以前から似たようなものですが。。)

素敵な生き方をしているなと尊敬するのは、芸であるかは関係なく思うところに進んでいき世界を再構築していく人の姿。実際に居ます!!! 芸の中でのアレやコレやの集まりもあるのでしょうが、海の中に水槽を入れ、その中で泳ぐ魚のようで、この世に産まれた魂に何故足枷をしてしまうのだ!!と。 水槽の中からは広い海は見えるけれども、魚の幸せは、広い海で泳ぐことだと思います。


le 13 vendredi 金曜日
//学習障害//小学生の頃、国語の授業で教科書を読むのが苦手でした。これは全く学習障害の域で、文字を下まで追って次の行の頭が、この左となりに行けないのです。文字の羅列はどこが区切りなのかも不明で、まったく朗読ではなく、ただただ紙に印刷されていた文字の発音をなぞるのに精一杯で、音節の区切りも全く変で、読み手も聞き手も意味不明になる。もうパニックで教科書をみるのですが、見て解釈して音にするという脳の回路が完成していなかったのだと思います。この記述は、長いHP日記でも初めてのことだと思います。

ですが、話すことや作文は抜群だったので不思議なものです。今は朗読の障害も克服出来ましたし、一生に亘って不得手とは限らないのですね。

人生の折々で私は何かしら致命的な学習障害を抱えていたのだと今にして思います。あの頃はアレで、この頃はコレ。全くの不得意で同学年と比べたなら最下位での漂流。頭の容量以上に使用すると、特定の箇所が仮死状態になり全面停電にしない自己防衛の働きだと思うのです。今にして思えば連日の強度なストレスで人格が崩壊しないために、あえて時代時代ある程度の領域を壊死させて、自己を保っていたのだと思う。よって当然のごとくアレもコレもそつなくできる優等生ではありませんでした。

瀬戸時代が終わって、信州の温泉旅行に誘われ、長い湯に一人浸かっていた時に私の心の閊えはとれました。不思議なことは私が気にしなくなった途端、その光景が生活から消えてしまったのです。それは今も続いています。

来年には新工房も軌道に乗るでしょう。誰とも会わなくなってしまう生活ですが、その慰めに古書を揃えましたが、もう一つ、学び直しをしようと思います。今更ですが、もう一度勉強をし直し、学ぶ喜びを味わいたいと思うのです。作陶して、読書して勉強する。それをこのタイミングでする意味を実感します。まるで今勉強した方が、その価値があるかのように、再履修をこの時期に設定してくれた導き。とんでもなく偉大な存在が俯瞰するかのごとく、全く無駄は無い導き。

不思議なのです。陶芸で魂を謳歌する!!と誓ってから、もう一度勉強することは、この謳歌に則する行動でもあるのかと思うと、人生の設計図とは若い頃に決まるものでもなく52歳にして舵を切ることもあるのだと。


le 12 jeudi 木曜日
//新工房往復//作業の効率化を考えると、行ったら数日は滞在も視野に入れなければ。 水は低き所を求めて流れます。私で言えば陶芸で生きる道になりますので、信念さえ持ち続ければ道に迷うことはありません。水に例えるなた、ただただ低きに流路を求める。ただし淵があったり浅瀬で勢いが減じたり、海へ行くことは分かっていても最後まで急流のような勢いは保てません。紆余曲折という熟語もありますし、スラスラと準備完了はなかなか難しいものがありそうです。なので遅いも速いも、その時々での意味があり、海へ行くのだから穏やかな気持ちで受け入れなければならないと思うのです。


le 11 mercredi 水曜日
//寒さと怠慢//本日の仕事量は僅少でした。正直、寒さと活動量の関係は負の意味で強い関係性があり、精神力で突破するしかないのですが、それさえも僅少でダメな一日になってしまいました。ただ新しい試みはしましたので、これが大成功なら少ない仕事量でも、仕方なしなのですが、こういう日々は続かないように心しなくてはなりません。

本日、今冬初めての火鉢。冬の到来が遅かったので火鉢初日も遅くなりました。


le 10 mardi 火曜日
//ツクは作るが宜し//本日は窯道具を作りました。ツクというのは、棚板を支える柱です。薄いお皿を焼く時は階数も増えるのでツクがますます必要になるわけです。問題は各柱の長さが同じであるように制作しないと本末転倒になってしまうし、その柱の長さも各種必要で、予想以上に粘土を消費しました。明日は、この続き。

本日もビスケットでお茶を!を実践。

実はですね、毎晩、明晰夢を見るのです。これは夢ですがコントロール出来る夢。ところが、その時は分かっているものの、やはりすっかり忘れてしまう毎日です。

今日も昼食後、ゴミ拾い散歩。素晴しい青空の元、三キロ歩いています。それで、いつもの場所に例のゴミがあるのですが、今日からまた違う文言で拾うことにしました。不法投棄する人は同一人物ですが、さらに何とも思わなくなりました。心一つの置き所で、こうも楽しくなるのだから人間って不思議ですね。


le 9 lundi 月曜日
//戦後処理//本日は戦後処理という出店の片付けと3月に出店の振り込みだけ。年内に二回だけ本焼きをします。それで工房を大掃除かな。明日は棚板修繕と本焼の準備、これが終わったら出店計画。

ちょっと頭が痛いので早く寝ることを優先します。また後日書きたいのですが、今年も学びの多い日々でありまして、【迷ったら変化を選ぶ】は未来を切り開く基礎なのかなと、思ったりもするのです。こう考えると、正反対に固執していた我が人生なので、これからの日々は変わり続けることを選択したいと思います。


le 8 dimanche 日曜日
//一つの仕事納め//月初ですが出店としては、これが仕事納めになります。去年も同じ会場で仕事納め。去年は二コマ使用し費用がかさみ赤字ではありませんでしたが収益としては、大勢来る環境では落第の成績。その半年後、一コマで出店。売り上げは減りましたが支出も減っているので取り分としては増える。そして半年後、同じく一コマで仕事納め。継続して取り組む意味を実感する二日間でした。

全く個人での活動になると、なにに重きを置くか見えてきました。それは【夢中の継続】 作家にとって、私の場合は陶芸ですが、これにどれだけ夢中になれるかが最重要で技量やセンスは二の次です。この夢中の競い合いで脱落するものがあり、また新しく参加してくるものもいる。何年経とうが陶芸歴が長かろうが、夢中の尺度で抜かされたら脱落です。本日、一つの区切りには到達しましたが、夢中は365日持ち続けるもので、これで長い休暇に入ったと解釈すれば、それで脱落です。


le 7 samedi 土曜日
//クリエーターズマーケット初日//今回は前回の反省を活かした配置。そのために材木を買ってカットしたり出費もありましたが、それは回収できました。今回も陶芸関係者が来る。二点お買い上げしてくれましたが彼是聞いてくる。それで一般のお客さんではないことを知るのですが、出店するたびに、このような現象が起きます。結晶釉の世界に没頭しているのは正解だと、その都度確認するのです。


le 6 vendredi 金曜日
//ビスケット//今週末はクリエーターズマーケット。出店がある時、菓子パンを大量に買い込み飢えをしのぐのですが、今回から、それも素朴ビスケットに代用するとします。本日は出店の前日。幸い会場が名古屋なので気も楽ですが、それでも今晩は寝られるでしょうか? 52歳になっても出店の前日は気が立ってなかなか寝付けないのですが、どうやら他の作家さんも同じみたいです。


le 5 jeudi 木曜日
//復旧しました//ネット環境ですが、便利だけど首の皮一枚って感じです。
本日は朝から慣れない忙しさ。公園散歩の時間もありません。明日も似たような一日になるとは思いますが、散歩だけはしなければ。

前も言ったけど、今年のどこかで新工房に移行するとの考えは浅はかでした。まさか電柱から工事に入るとは想定外で電気窯を買ったものの動作が正常化どうか調べることさえできません。明日は最後の窯出しです。良品がありましたら持っていきましょう。そうそう、本日のしたことだけど何を持参するかの選別作業。選別したのに置けないくらい選んでしまった。明日、さらに増えるというわけです。

//追記//悪弊に毎日の菓子パンがあります。脂肪肝だし、これを断つには、、、、無理との結論が現れましたが、6日は断ちまして一日は喫茶店に行き甘いものとコーヒーと読書の時間で取引しようかと。そういう閃きが湧きましたので、これに素直に従うとします。


le 4 mercredi 水曜日
//最後の本焼き//窯出しは金曜日になります。明日は朝から持っていく一軍商品の選抜です。毎度のことですが余分なものを多く持参するのでコンパクトに努めなければ。さて、本日はコミュファ光が長時間のメンテナンスでネット環境が休止状態。この日記もいつup出来るか分かりませんが、書くだけは致しましょう。

それにしても韓国の戒厳令と撤回には驚きました。あの国は右派でも左派でも反日なので見放すに限りますが、今後、文政権を更に衆愚化したような左派政権になるかと思います。訳の分からぬことをして来たら、今度こそ大使召還⇒国交断絶でも良いと思う。まさか昨日の日記の続きになりますが価値観の合わぬ存在とは距離を置いてしかるべきだと思うのです。彼等は正しいと思うのだから、近づけばその価値観の波に吞まれる。韓国の場合で言ったら歴史を歪曲した日韓関係の再構築。冗談じゃない。


le 3 mardi 火曜日
//2m×2mの世界//それも通路に面しているのは一面のみで、そのなかから50cmは出入りのスペースで空けなくてはなりません。この限られた世界で毎回、出店の工夫をするのですが、今回も大幅な改良を加えました。

明日は朝から最後の施釉。ヤマダ電機にも行って何点か購入も。

//純真な心//インスタやyoutubeなどで海外のドッキリなどを見ると、度が過ぎるというか、人間性の劣化を痛感します。人が驚いたり、この場合、災難と同時に驚く仕組みですが、それを笑う。確かに一面を切り取れば面白いところもあるのでしょうが、面白いところを拾うために人への不快を土台にしている。こういう企画に精を出すのも見て笑うのも、自らの人生になんの糧にもならないと思うのですが。

犬がおやつの前に真剣になる、投げるボールに真剣になるのは純真な心。こういう曇りなく対象に取り組む姿が忘れつつあるように思うのです。スマホ見ながら赤ちゃんを抱く母みたいに、心ここにあらずして何かをする。

この10年ほどの変化は映像を見るのも発信するのも、小学生も可能なくらい一般化しました。これに多くが夢中になり、そのためには赤ちゃんの瞳を見ない母、人や動物が傷ついても映像として世に送る、、、選挙でも当選を目的とせず、人に不快を与え注目を浴び、これを目的とす。。。

なんだか世の中は二分化するように思います。2025年は、犬の瞳がある人と、そうでない人に二分するように思います。犬の瞳というのは、真剣になれる人のことですが、自らの目的のために純真に真剣に毎日を過ごす人と、赤ちゃんの瞳をみない母親のように、本来すべきことを蔑ろにして安っぽい享楽で時を過ごす人。おそらく混在しながら分化していくのでしょう。人間が本来するべき事に純真で取り組む集団と、安っぽい享楽で人生の質を落していく集団に分化すると思います。

 【下らないことをしているなあ】と思う一方、【彼等はそれが楽しくて仕方がない】

この価値観の相違は確実に相手方を巻き込むので、相容れないと思ったら距離を置いて関わらないことです。闇バイトに参加する人たちは、そもそも見えている世界が劣化した人の集まりだと思うのです。今後、ある人にとっては一発退場のレッドカード行為も、別な人にはこの感覚がなく実行する、こういう図式になっていくと思われます。ですから不快感を未然に防ぐためにも、価値観によって分化して、そうでない人とは別世界を構築していく未来を思います。それは地図には無い精神の国境です。


le 2 lundi 月曜日
//割れていなかった//昨日完成した作品を、あの手この手で乾燥させ素焼窯へ。本日窯出ししましたが、割れずに焼き上がっていました。これは嬉しい!!それから施釉しまして窯詰。かなり密度高く詰めこみました。これで残る本焼きもあと一回です。

明日は朝から木工作業に続いて、午後からは第二回目の模擬展示。

今年は何処かで新工房に移行するのかと思っていましたが、あらゆる分野で年単位の遅延。流石に来年は移行できるかと思いますが、それも秋とか冬だったりして。。。。 名古屋に居ても誰とも会わず制作ばかりなので、三重県に行ったとしても窓の外が違う光景で、過ごし方が変わることもなさそうです。


le 1er dimanche 日曜日
//振り返り//先程、インスタで瀬戸時代を終えてから今に至るまでの投稿を眺めていました。面白いもので、卒業から何段階かに分けて私は成長しています。と、申しますのは卒業直後の作品と今のでは、やはり進歩と改善が形になっている。特に、この半年間ですが、自分にとっては大きく進歩したと思えるのです。そして、この頃の作品は焦ってばかりで大したことないとか、今にしてみれば分かることもたくさんあります。

本日は出店前の最後の素焼き。朝早くに続きをしまして、それから窯出し。窯が70度のところで、作品を強制乾燥。それから太陽光でも乾燥させ14時に素焼点火。爆発せずに焼き上がりますように。


 
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