令和5年6月juin.2023


le 30 vendredi 金曜日
//夏越の大祓//本日は一年の半分を終了する日。この半年、この一年は年末に振り返りますので、本日の日記は六月の事。

この六月も近年稀に見る充実ぶりです。温泉旅行に招待されました。その前に行った旅行と言えばコロナ前なので、積年の疲れを取った湯にでもありました。平日の温泉は、ほぼ貸し切りで何度も何度も浸かっていたら、何十年と存在した心の中の漬物石が消えてなくなりました。生涯持ち続けるものだと信じ切っていたのに、消える時はあっさりしたものです。 それから浜松の出店。新工房の杭打ち。51歳の誕生日。そうそう、生涯手許に置くだろう二冊のに出会えたのも大きいです。

考えてみると、という良く書く文言ですが、この考えることって人間の特権だと思う。いやいや動物でも多少は考えるよ!!と言われたら確かに、巣を作るのに、何かを隠したりするのに考えたりしています。

考えてみると、想像するってのは人間の特権だと思う。未来の事、夢や希望。流石に、これは動物には無いと思う。彼等は今を生きるのに必死で、その姿は大いに見習うべきですが、頭に描く想像は、人間の特権だと思うと、これは高等生物にのみ与えられた進化の賜物で、そこに想像の意味や価値があると思う。本来、これに意味が無ければ、進化の先に想像という領域を得ることはないのであるから、進化の果てに得た想像という行為は、実際、その生命にとって重大で決定的な意味があるのでしょう。

こう考えてみると、想像することは、この行為の果てに重要な意味が展開され、命にとって有意義な展開の原動力の様なものだと私は思うのです。こうも言えましょう。【想像=祈り】 未来を祈ったり願ったり思い描く行為は、とても重要であり、現代人は純粋な心を忘れてしまいましたが、進化の過程で得た想像する行為は、全身全霊で今を生きる動物の、延長の発見なので、原始想像行為・原始祈願行為は、純粋で全身全霊で事に当たっていたので、その後に有意な展開も得られたのだと思う。

よって願うことがあるなら邪念なく全身全霊で祈るべきであり、その願い事や思い描くことは、原始祈願行為に通じるものであるべきだ。あの時の彼等が人の不幸を願ったとは思えない。例え欲であっても純粋な願い事の領域で純真に祈ってこそ、確実に有意な展開があるのだ。


le 29 jeudi 木曜日
//豪雨//早朝、雷鳴と豪雨。これが一時間120mmの雨なのかと思う豪雨が10分ほど続きました。窓の外は、雨が激しすぎて全体に白っぽい世界で100m先も見えない。本日は最も激しい降り方が10分ほどでしたが、これが線状降水帯になると10分×?の豪雨の波状攻撃。そりゃ洪水になりますわ。


ご機嫌なナンバー♪

この一週間ほど香炉を作っています。あと2個蓋を造ったら終了なのですが、これが各個別物なのでなかなか進まず。本日も朝から始めて4個の仕上がりでした。来月の出店に新しい要素も加味します。人の動向を知るまたとない機会なので、毎回、新しいものを。一応、見向きされないものでも二か月は置きます。自信を持っても、それは私だけの感覚とか、思いがけないものに注目があったり、今作っている香炉は、どんな反響があるでしょうか??


le 28 mercredi 水曜日
//歯医者で寝る//月一のクリーニングをしたのですが、その最中に寝てしまい、口を開けて下さいと言われる始末。

この歯医者以外は陶芸に専念したのですが出来高はイマイチ。気が散漫になっているのではなく、まだ慣れていないことに取り組んでいるから。

梅雨というのに、本日は夕立。夕立後に覚える涼感は情緒がありますね。理想は日本家屋での夕立。青い畳に古い本でも読んで、夕立や雷鳴、その後の涼感。なんて風情のあることでしょう。信州の情緒は長いこと私の憧れでしたが、私が覚えるのは伊勢の情緒。温暖化も後押しして暑く・蒸し暑く・、寒さもなくて一年の半分以上は、昔でいうところの夏以上の気温。そこに情緒と風情を見出すのが私の知恵と工夫になるのでしょう。

朝顔・簾・風鈴・打ち水・麦茶・水羊羹・浴衣・蚊取り線香・蚊帳あたりを生活に取り込んだり、して、それを一年半分以上楽しめることの喜びに昇華する。


le 27 mardi 火曜日
//消えてしまった梅雨前線//蒸し暑い一日でした。とうとう名古屋が梅雨前線の南側に入ったのだと思いきや、この時期なのに前線が消滅している。。このあと豪雨で降水量の帳尻が合うのかもしれませんが、今年は今のところから梅雨ですね。

//与えられた時間//51年前に産まれて、今後どれほどの時間があるのか分かりませんが、仮に100年の人生だとして、産まれてから暫くは言葉を覚えたり成長に専念する時期。100年の人生だけれど、自分の決めた道に費やせる時間はどれほどかと考える時、全く無駄にできない現実にぶつかります。20そこそこで陶芸で生きると専念した場合、単純に言って今の私より30年も時間的余裕がある。私は48歳で退職しました。これより先の人生を陶芸の道に決めたことは我が人生において時間確保の革命的転換ではありましたが、では同じく他の陶芸家と比べた場合、それはかなり遅い出航であります。

全く無駄にする時間が無いことに気が付きます。専念できる時間に感謝して、その質を高めていかなければなりません。その思いが高じて夢でも仕事する勢いが欲しいのですが、前職の夢とか、発展乃場と呼ばれる某ビルに私が居て、何で私がここに居るの!!と何とかして帰ろうとする夢などは、もう何度も見るのです。こう考えると、私は言葉とは裏腹に全身全霊で陶芸に専念していないことになります。

初めて陶芸に出会った頃は、次に出来るのは週末なので、もう平日に何度も陶芸の夢を見ていました。あの頃のような無邪気な夢中を、わたしは日中の活動時間に全身で覚えて、それでも足りないくらいの感覚で寝る、その位の積極性を呼び起こすため、私は心に信念の煥発をしなければならない。ボーーーっとなんて全くしていられないのだ。全てを陶芸か、その関連に。


le 26 lundi 月曜日
//落ち着いたら//涼しげな水盤に豊かに水を湛え、そこにハッカとかミントの青葉を浸し、同時に日本手拭いも。熱くなったら、手拭いを絞り身体を拭いて、団扇で風を送る。これで、どれほどの涼を得られるか試してみたいのです。

さらに思います。素焼の壺に水を湛えると気化熱で、中の水は冷たくなる。同じようにハッカと手拭いを浸す。

これはどうでしょう。凍らしたペットボトルの結露を受ける皿を、素焼の深鉢。結露の水は冷たいのですが、これを素焼の鉢に受け、同じく蒸発させ気化熱で熱を奪う。来年の夏には試してみたいことです。

51歳になりましたよ。芸でありますが全く芸活動をしていません。それもこの一年は徹底していました。10年単位で見ても、とても細々としたものですが、さらに10年追加して、20年間は、芸らしからぬ芸。

生活の拠点が変わっても、そういう方面は継続されましょう。生臭坊主よりも、よほど仏門に相応しい生活なのですが、どういうことでしょう、これに並行するように死生観や魂の事など、よくよく考えて自分なりの答えを見出しました。もちろん、これでもって完璧ではないので、さらなる探求を進め、より根源的なものと一体化できるように、生臭坊主よりは精進していると思います。でも、こんな20年来ですから、今があると思っています。何の迷いも不安もなく生活を変える決断をしたこと、これは今であっても、いささかも揺るがぬことであり、そういう圧倒的な強い心の置き所・信念が醸成できたことは、まさに自分で禅問答のような日々を送ってきた賜物だと思います。陶芸をする時間と座禅と瞑想の時間が存在する生活を不思議と歩んでいます。

祈ることも、この日記には沢山書いてきました。思い返すと、自分のことは全く祈らず、会社で立場の弱い人、その人の今後の事など何度も真剣に祈っていました。今は、その様な人への祈りも無くなりましたが、出店で街に立っていると、身体に不自由な人、老いた身でありながら生き抜くために働く人の出勤の様子などを見ると、反射的に心で祈っていますが、それがとても多いのが現実であります。今後も私は変わっていくことでしょう。そして、そこから世の中を眺めて、また折に触れ祈ることの繰り返しをするはずです。それと同時に、お買い上げくださった人にも感謝の祈りを捧げています。祈ることは全く構わないことだし、祈り多き生活は私らしいと思っています。


le 25 dimanche 日曜日
//明治の器//朝一番に水を汲みまして天龍村に行く。新茶を買うのも目的ですが、今回は村内の不要な器などを新たな持ち主に譲渡するガレージセールの日でした。前回は浜松でしたので、二回目にして初参加。正直申しますと、やはりと言った感で、良い物は前回で捌けたそうです。その中でも明治時代の漆器と陶磁器などを持ち帰る。

今までも骨董は買っていますが、今回は譲渡なので、明治期の器であっても気安く使おうかと思っています。

二日間、全く非陶芸の日々でした。明日からは心改めて取り組みます。


le 24 samedi 土曜日
//お休みいただく//南信濃に向けてのんびりドライブ。湧水汲みは明日なんだけど。
豊田市の自然観察館とか、途中気になる施設に寄りまして、20時ごろ到着。この日は道の駅で仮眠。本を持参したのですが、早々に睡魔に襲われ寝てしまう。フルフラットな車ならさぞかし寝心地も良いのでしょうが、それはいつかの夢とします。


le 23 vendredi 金曜日
//読書三昧//本日、51歳になりました。先ほど読了して、この数日で2冊読み終えたわけですが、この2冊は生涯座右の書とします。何十年前から我が家にある本ですが、その存在は知っていても、あの頃は読むべき時期ではなかったのでしょうね。縦しんば読んでいたとしても、今ほど興味沸かないだろうし、読んだという事実だけで真髄に達することも無かったのでしょう。今、読むからこそ意味がある。

この二冊もそうですが、ここに至るまで、準備の段階なのでしょう。まるで今から始める!!と、不思議な出会い・偶然な接点などを経て、この二冊に。

一冊のノートを作ろうと思います。頭にアレコレ描いて生きているわけですが、それが筋道の通ったものであること。何を目的にしているのか。それは継続してしかるべきことなのか。我欲に基づく考えは早々に破綻するので、その筋道が邪を排除したものであるか。我が継続が皆の幸せに通じるものなのか。
様々な要素があり、これらは完璧な調和を保って美しく存在するものでなければならない。その当りの精査が出来ていない。単発で考える傾向があるので、全てが調和あるものとして存在するように、これよりノートは大切な存在になります。


le 22 jeudi 木曜日
//本//最近は古書店に行っていないのですが、この1年ほど猛烈な勢いで書籍を揃えました。本日は50歳最後の日ですが、書籍購入は最上位の出来事になります。買い揃えた本を読むのに、どのくらいの時間を要するのかさっぱり見当も尽きませんが、私の人生の後半の伴侶になります。

今、一冊の名著に触れていますが、これは何度も読むべきだと思うのですが、そうすると全書読破の夢はますます遠のきますね。

新しい環境で、どの様にして本を読もうかと彼是思い巡らすのは楽しいことです。読書のための机と椅子等を用意するのも楽しそう。毎日に、読書の時間を設けて、それはお洒落に存したいと思うし、そのための茶器なども作らねばと思います。

その頃にはアカウントも増やしたいなあ。
●現行の総合的発信
●2525染付
●ある陶芸家の読書時間
●美術作品専用

明日は51歳になります。全ての感謝の上に私が存在します。ありがとうございました。


le 21 mercredi 水曜日
//夏至//陽が極まる日。明日からは少しづつ陽が削られ、年に二度ある陰陽調和の取れた日、秋分の日を迎え、陰が極まるのが冬至、翌日から陰が削られ、春の調和の日、春分の日を迎え夏至に至る。 世界には色んな暦がありますが、今あるカレンダーを廃止して太陽に従って一年を眺めてみると、自然な形で4分割になります。正月を春分の日に定めたら、本日をもって1/4を、冬至なら1/2を終えます。

無人島に住めば月曜日とか火曜日なんて関係がない。月の満ち欠けか上記の太陽の盛衰だけが普遍的な目安となります。明治以前は一週間の感覚もなかった。この一週7日の束縛から解放されたら、どんな光景が見えるのでしょうか!!と書きましたが、半分は見えている生活です。

まもなく51歳になります。私が今存在することの有難さは言うに及ばずですが、全く奇跡なのは51年前に産まれて、一瞬たりとも、0.0000001秒であっても命の切断が無かったこと。全く瞬間的な断絶もなく連綿と継続している。こう考えると、死というのは、たったの一度だけ。この継続を瞬間的に断絶させようと試みても、どれだけ薄くても命の幹をスライスし終えた時、二度と生き返ることはない。  だから恐れることはないのだ。死に至る病とか災難は一度だけ。何をもってその一度にするのかは分かりませんが、何かの一回で死を迎えるのですから、平素は心配事など蹴散らして命を豊かに毎日を生きるべきだと思うのです。

新工房は来月棟上げ式を行います。前職を辞めて3年近くの移行期間になりますが、人生を前半後半に分けるとしたら、じっくり構えた形になります。私の後半は隠居とか定年後の何かではなく、命続くまでの作家活動になりますので、どうでしょう我が人生に長期休暇があるとするなら今現在で、これが間もなく終わろうとしています。

浜松に三日間出店しましたが、目の前を過ぎる人は1万人以上でしょう。不思議です。彼らの全てに戻る場所があり、窓があって、そこから見える景色は人それぞれ。そして翌日にはまた、それぞれの動きがある。これは何度も書きますが、本当に不思議で映画的。様々な人生がある。決して人の人生を演じることはできないけれど、私が私のままあり続ける必要もない。その人やあの人に取って代われないのだから、私がより良く選択したり決断すれば良いのだと思う。


le 20 mardi 火曜日
//戦後処理//遅くまで寝ているものかと思いきや、7:30から片付け。それから朝市に顔を出し、昼からは美容院。帰宅後には透明釉と基礎結晶釉の大調合を。10kgと16kg。
明日は、通常通りですが、午前中は情報の整理をしようかと思います。学んだ事柄を、もう一度反芻する。それ以降は、残った素焼を施釉したいと思いますが、私の金系の結晶釉とは別の、色彩の代表選手を発掘したいと思います。


le 19 lundi 月曜日
//回想・三日目//深い喜びを感じます。営業活動と言えば一か月の内で、この三日ですから、現在の所、これで前職を凌駕する所得には及びません。ですが、自らの作ったものを、私の存在を知らない、通り過ぎる人の前に置いてもらう、たったこれだけの事であっても、確実に売り上げがあって、それも着実に増えている。この事実が私には宝なのです。黄金の湧く泉です。

全く持って深い喜びしかありません。街角に立つだけで、次はこのようにしようと良き創作の思いが輪郭も鮮明に私に湧くのですから、全てが私には良きこととして与えられるのだと、絶対的な存在をも確信します。前にも書きましたが、心に思う、それは信念ですが、私の信念と生き方が一致する時、初めて【信念の具現化】が産声を上げるのでしょう。


le 18 dimanche 日曜日
//回想・二日目//売れると思っても売れないもの。この逆に、売れ筋というものもあり、こういう傾向が見えてくるのも場数を踏む効用というものでしょう。あと、売れませんでしたが手応えを感じるものもあれば、全く見向きもされない、そういうものもある。作り手としては、どれも「イケる」と思うのですが、これを修正してくれるのが出店。特に人通りの多い場所での出店。

新工房が完成するまで、活動はこれに限定しようと思います。この三日間で学び得たことを、一か月の間で良き形にして、それの手応えを感じる。この場所に拘るのは、通り過ぎる人が圧倒的に多器からです。田舎の出店では、傾向を読み間違える恐れもあるので、人に揉まれて成長するこの考えは正しいのかと思っています。

本日も名古屋に戻る。


le 17 samedi 土曜日
//回想・一日目//本日より始まる浜松出店第一日目。前回は、気持ちが高ぶっていて全然寝れませんでしたが、回数を重ねる効用というものは、デンと構える心持ち。3:50に起て、途中道の駅で充電と仮眠。7:30分から設営。この時間は本当に楽しいものです。今日はどんな出会いがあるのだろうと。
回数を重ねる効果というものを、売り上げの面でも感じます。前回は三日かかっての頂を初日で迎える。

一旦、名古屋へ戻る。


le 16 vendredi 金曜日
//どの瞬間も//一生懸命。そんな金曜日でした。毎日、そう、陶芸が私の生活になって以来、毎日が、どの瞬間も一生懸命です。でも難しいことではなく、種明かしをすると、 【良きものを造りたい 】これ以外の思いが存在しないので、もう夢中になって挑む。だから嫌々という気持も湧かないので、どんなに頑張っても、文句を言ったり不平に思うこともありません。自分ななんて幸せ者なのだろうと心底思います。こんなに有難い環境なので、心はいつも積極的に持ちまして、私に流れる時を慈しみながら過ごさなければと思います。


le 15 jeudi 木曜日
//次の日は//8:30まで寝ていました。昨日頑張った分、本日は余裕があります。明日はまた忙しくなるので、半日は休養に当てます。

遅々として進まなかった新工房ですが、昨日は大安でもあり、杭を打ち始めました。これより建設してまいります。ただ諸々の雑務も膨大で、新工房で心機一転は、来年になるのかも。ですが完成予定図などを見ると彼是夢も膨らみます。

全てに無駄は無かったと、私に訪れる一切は良きこととしての意味があると思うのです。この一周も二周も遅れた工程ですが、名古屋工房で出来ることの精一杯をして、本格操業前に今後の進むべき方向性を絞り込めるのは、今から思うと絶妙なタイミングです。

最近、前職の夢を良く見る。日中はこれだけ先々の事を夢見ても、寝る時に見る夢は前職の人間関係。以前のそれは、まるで私が今でも働いている夢でしたが、最近は、どうも在籍はしていないものの、当時の人間と個人的に繋がっている夢。現実としては、そんな接点はないのに、なんで、あの人と話しているの!!っていう内容。この前は、その親と話していたり。。。
全てのことに良き意味があるとするのなら、夢に出てくる理由は「成仏」出来ていないからだと思うのです。全ての事が良きことなら、きっと良きに解釈できるのであろうし、まだ実行していないから、未だに夢に出てくるのだろうと。私の人生で語らずを得ない人物なら、良き意味を見出して、この章はおしまいとするべきなのでしょう。今日は休養日なんで座禅の時間にでも、少し思いを巡らしてみたいと思います。進むべき道は違へども彼にも正義があって一生懸命であった。それには経緯を払うべきです。きっと、絶え間なく彼は今日も一生懸命でしょう。これは大いに見習うべきことだと思います。


le 14 mercredi 水曜日
//ああ、疲れた//4時起床。それから三重県へ。工事の立ち合いなのですが、家ですることもありまして切り上げて戻る。帰宅したのが13時頃で。15時まで窯出しやら次の施釉、それから父上を歯科まで送って、また小一時間施釉して迎えに行く。19:30頃まで施釉窯詰。そして本焼成。

あともう一二回本焼成が出来れば、全ての結果を見届けることも出来たのですが、時間切れにて、一部作品の良品のみ浜松行き。

それにしても疲れたのですが、窯の都合で、どうしても本日中に焼成まで持ち込まないと更に出来高が下がるので、必死でしたが、これは明日に持ち越す疲れだわ。


le 13 mardi 火曜日
//絵心の無さ/という強み。昨日今日と染付をしています。生まれながら絵心がなく、目の前の対象を凝視しても同じように描けません。ですが瀬戸時代にその技法は一通り学びました。

絵に命を懸ける世界において、私も一生懸命ですが、全く別次元の絵になってしまい。。。

でも、これが強みなのではと思えてきました。おそらく絵の上手い人は、絶対に描けない領域。この下手くそな技術でその世界に乗り込む意外性。さて、どんな反応があるのでしょうか?


le 12 lundi 月曜日
//書くだけ書いたので//昨日一昨日と内的なことを書き綴りましたので、今、特に書くことがありません。私の日記は、その日に何があったと記述することは稀で、その日に何を考えたかが大半であります。この自問自答の禅問答の様な日記を20年超継続していることは、自らの信念の理論的背景を確固としたものに確立し、それは私の強さに直結しています。全く寂しいとか人恋しいいという気持ちが湧かないのは、これらに満たされているのではなく、自問自答の継続によって寂しさの発生する余地が全く無いと理解しています。

そういう方面で言うと、魂の一つは哲学家とか宗教家とか、自ら考え続けることを業とした人の結晶が私に存在していると、確信します。もちろん陶芸家もいますが、私に存在すると言うことは、私の内面において完璧に美しい状態・調和を保って存在する。いつか一緒になるという時を超えた同志でもありますから、絶対的に信頼する内面の私たちなのです。

先程、本焼きの窯を点火しまし素焼は半日・本焼きは一日、休日を設けるなら、この期間にあるのが、最も自然でありましょう。太陽でも月でもなく、何時窯を焚くか。これが私の休日。


le 11 dimanche 日曜日
//進歩と向上に順応せよ// 陶芸を始めて今に至るまで、それは進歩と向上の一方通行だった。この流れは決して変わることなく、私は進歩し向上します。と、いうより毎日、心を込めて楽しく真剣に精神を統一して挑めば、否が応でも進歩し向上する。進歩と向上は、川の流れのような自然なもので、いやいや種に水撒くようなもので、その流れに自らの意思が合致した時、当の本人も不思議に思ってしまうほどの爆発的成長を見せる。むしろ進歩と向上は必然であるから、疑いなく、可能不可能そのような吟味の段階を超越した信念の領域で参加してみるべきなのだ。

と、大それたことを書きましたが、私が陶芸に出会った当初は、まさにこの心持ちでした。

自らが尊く思うことと、その思いに真摯に参加できる時間や空間さえあれば、あとは程なく訪れる爆発的進歩に順応していき、さらに次の段階に向けて心を整えるべきなのでしょう。

大いに飛躍しますが輪廻転生というか死生観、私の魂の考えは以前にも書きましたが、私に存在する多くの魂を私の人生で一つにし昇天させる行為。命の数だけ魂が存在すれば、その先は増加の一途であり、その世界の継続に無理が生ずると書きました。魂の調整は必須です。そこで考えたのが、生まれてくる命に一つの魂ではなく多くの魂の参加があって、その一生の期間で溶解し、一つの魂として次の世界に捧げる。誰に聞いたわけでもありませんが、もう長年確信していることです。

何故これを書いたかというと、魂を一つにするのが人生であるのなら、健全な心さえ持っていればその人の生涯は進歩と向上は必然的に付随するものであり、決して難しいことではない。その証拠に、人類の歴史は進化し続けている。

ですが、増えすぎた人類を調整させるため、今後人口は減少の方向に宇宙の作用があるでしょう。つまり、今後生まれてくる命は少ない反面、それに宿る魂は確実に増加する。この話は100年先かもしれませんが、人類の能力は格段に向上する時期だと思います。私の魂が、これに参加する頃は、普通の人類の能力が大谷選手のような人ばかりかも知れません。その時代でも、魂を一つにする行為は求められますので、私は未来の私が少しでも佳き所から出発できるように、捧げる魂の質を爆発的に進歩と向上させたものにします。

この考えは、とても狭く切り取っても時を超えた利他の行為だと思う。ましてや普段の行いに他を思いやる枠組みを構築して進むならば、もはや全てのことは信念として、その具現化を確信し、もたらされる爆発的な結果さえ疑いもなく受け入れる私が出来上がっているのだ。

長々と書きましたが、【自らが尊く思うことと、その思いに真摯に参加できる時間や空間】これが大切だと思います。仕組みを理解し、健全な精神で取り組む。全く自分で考えたことですが揺ぎ無い確信がありますので、【仕組みを理解し、健全な精神で取り組む】これを信念として毎日を重ねるだけです。


le 10 samedi 土曜日
//底が抜けた//そんな胸の内です。この前、一瞬ですが腰に鋭い痛みを感じた。それからというものの、腰に慢性の鈍的な痛みを覚えるようになったのだが、錯覚である気がするのだ。確かに一瞬の痛みは感じたものの、その記憶が頭の中で再生産され、腰の広範にボワンとした鈍的な痛みが面的に感じる。あの痛みは瞬間的で針の先のようなものであったのに、脳内で記憶が変換され再生産。

と、申すのは、この日記に何度も記載した両親の不和からくる慢性的で広範な非生産的思考は、その大半が、架空の物語であって広範に慢性的に再上映していたと。確かに、起爆的な事件は何度も発生するのですが、冷静に考えてみれば、瞬間的な事案なのですよ。人生における瞬間瞬間全てを併せても数十日程度。それなのに、消えない存在として私の頭の中で勝手に枝葉も付けて大河ドラマのように感じていたのが、数十年。私は幻覚というか自己催眠というか勝手に作り上げた幻で、心の立ち位置を有り様を制限していた。

底が抜けたと申すのは、自己催眠の根底が崩れ落ちたということです。事実として数十年、催眠状態だったのですが、それを恨んだり否定も後悔も致しません。この事実は私に必要であったと。つまり、瞬間的事案に人生の数十年を勝手に捧げた事実を、自分で認識し自分で取り除く、この一連の行動が私の生命にとり大変に意味あるものであった。生涯私に纏わり付くものだと思っていましたが、50歳にして、自分で気が付き自分で取り除くことが出来たこと、この一連の流れ全てに感謝しなければなりません。

私が今あるのは、全ての事象の上であり、それは一切合切慈しみの対象である。昨日一昨日、平日の人のいない湯に思う存分浸かり錯覚の底が抜けたのかと、信州への転地療法の賜物と考えています。ありがとうございました。



le 9 vendredi 金曜日
//ご対面//家まで送ってくれる旅行は、沢山お土産も買えますので、本当にありがたい。それにしても長野県は大きい。2.5h高速を走り続けても、まだ長野県。こんな県は日本に数えるほどしかないと思います。

まだ日の明るいうちに我が家に到着。ちょうど母上が草木の手入れをしていた時に着いたので、とうとうご対面の儀と相成りました。園芸好きの母上でありまして、その傾倒ぶりはすさまじく、よって交通社夫妻も関心の的。ぼんやりしか話さないのでモヤモヤしていた母上でしたが、これで少しは納得したのか、さらに関心が湧くのでしょうか??

前回の旅行は瀬戸時代直前であり、この間コロナもありまして、実に久しぶりの旅行になりました。私の卒業記念としていろいろと、お心掛けて下さり感謝申し上げます。ありがとうございました。旅行の軍資金なんてちょろいもんよ!!とコレからもご一緒するので、明日からは世間では週末ですが工房で頑張ります。

新しい人生、時間軸が変わる。良い選択をしました。全てに感謝します。ありがとう。


le 8 jeudi 木曜日
//時間軸が変わった//大学を卒業して以来、旅行などはGW・盆や年末年始を除くと週末や三連休、これに前後一日の有休休暇を足して赴くというのが、旅の時間軸でした。ところが今回、交通社夫妻に誘われて木曜の8時の特急しなのにて私の旅が始まりました。

以前の私の感覚では、木曜日から一泊二日の旅をするなんて、考え付かない行いで、全てがとても新鮮に映る。食事をするにしても、人気の温泉に浸かるにしても、ほぼ貸し切り。こんな平日に遊んでいる人は外国人観光客か定年後の御夫婦くらい。嗚呼、とうとう私は別の人生を歩み始めたのだと、旅行一つにとっても時間軸が変わりましたので強烈に思うのです。

良い温泉を堪能しました。今回もありがとうございました。


le 7 mercredi 水曜日
//20:30まで//明日明後日と自然乾燥させるため、本日は20:30まで作陶に専念しました。やるだけやったので只今、疲労感が押し寄せています。疲れを癒す温泉に浸かりたいものですね!!

瀬戸時代の仲間達の動向がたまにインスタなどにupされています。皆さんそれぞれの道を選び、その先で陶芸。「毎日、秒で終わっています」と今風の言い方ですが、夢中であっという間の毎日であったり、新作が出来たとか制作途上の光景とか。誰も彼もが無我夢中。


le 6 mardi 火曜日
//将来は//熊は冬のために冬眠のために秋に食べるだけ食べたりする。それは未来に備える行動だがせいぜい100-150日の未来への備え。そもそも一年を超える備えというものは動物にとって不自然なのだろう。備えというものは季節などで活動できない間のもので、活動できるときは活動して解決する。その活動期に動けなくなったなら死期を受け入れ近々に確実に死ぬのであろう。

人間の悩みは、将来という数十年の期間をどう過ごそうかと案じる様なもので、まるで全てを冬眠で過ごすかのような備え。働けるうちは働き、動けなくなったら死を待つという動物界の潔さがあれば、案外に気楽な人生になるのかも。芸として生きると人間的関わりや支援は確実に先細りする。よほど解脱の域に達しないと悩みや不安は終生付きまとう。

私は決めました。この陶芸家の人生を命尽きるまで精魂込めて専念します。この専念する過程で見える世界も変わってくるので、人生の老後の在り方は、見えた世界と上手く付き合うだけです。先々の世界は、私の成長と共に変わるので、心配などの予見とか備えは【考える暇があったら、もっと一生懸命作家活動をしろ!!!】と言うことになります。。

本日は素焼き。明日は作陶三昧で梅雨ですが木金と自然乾燥に、そして二回目の素焼き。来週は本焼き三昧になります。


le 5 lundi 月曜日
//新しい形//次回の窯は新作窯、今まで試みたことの無い形を彼是試します。これも人前に出たからこその動きでありまして、中に籠っていたら、その様な挑戦は数年後回しになっていたのかもと考えてしまいます。

去年の今頃は遅々として進まない新工房にイライラとしていました。現在、農業委員会の結果が出まして転用許可が下りた段階です。建屋があるわけでもなく物理的にはあの頃とほとんど変わっていませんが、この進捗具合も、私には良いのでしょう。では何が良いのかというと本格的に動く前段階で出店し経験を積んでいる今の行動。新工房の完成・本格操業までまだ一年超時間を要するのかもしれませんが、座して待つこともなく、多くの実験的な行動を積み重ね、来る日に主たる動きに迷いなく移行できるような作戦とします。

そう考えると全く無駄が無いので心も穏やかになります。大きな窯で不人気な作品を大量に作る寂しさを避けるためにも、今は諸々挑戦し主たる作品はないかと見定めなくっては。


le 4 dimanche 日曜日
//地域の一員//地区の大掃除。1時間程度でしたが一斉に地区の掃除を始める。近所に住んでいるものの知らない顔ばかりで驚くことは昨年と同様でした。来年は、その地区が変わるのかもしれませんが、田舎風味が加味されるので、色々と質問攻めにあうのかもしれませんね。

明日は朝から晩まで作陶三昧。水曜日までは作ることに専念して乾燥⇒素焼の予定。


le 3 samedi 土曜日
//正午に//本日が土曜日であると気が付く。全く曜日感覚が無くなってしまいます。この決定打が、平日の旅行。週末以外の日に、平日で泊りの温泉旅行とか以前は考える余地もありませんでしたし、それがどういうものなのか、どういう光景が広がっているのか、やはり想像すら一度もありません。平日に泊りの温泉旅行を味わう感覚に、我が人生の時代が変わったと実感するのでしょうか?

本日は風は強いものの青空で清々しい一日。昼食から夕食まで、ずっと轆轤の前でした。楽しくて夢中なので、この感覚は前職の頃の週末陶芸と全く変わらず。よって、自分は今、仕事をしているのかさえ不明瞭になるのですが、怠惰ではなく一生懸命で夢中。前職の頃は趣味、今は仕事なのですが、取り組む精神状態は全く同じなので、私は幸せ者です。

幸せついでにもう一つ書くとするなら、【ペットボトルか沢の水】
水が欲しい!!!!とした時、ペットボトルと沢の水があって、私はとうとう沢の水になりました。
水をお金に置き換えると、前者はまとまった大金。後者は生み出され続ける富・収入。賞与とかは私の人生から消え去りましたが、その代わりに、粘土の塊が美となり価値となり富となる、そのような流れを作りだせたこと、本当にありがたく思います。
 ここに居てはならない!!と思っても深い霧の中を当てもなく歩くしかない不安に比べたら、道が存在する私は、ここに至る全てに今、心より感謝しなければと思います。ありがとうございました!

次回の展示は人通りの多い場所。前にも書きましたが2-3秒で通り過ぎる環境。出店において考え方は人それぞれですが、楽しみでしかたないのです。と、申しますのは人の関心を知るうえでまたとない環境。本日もたくさん作りましたが、何が喜ばれるか、本人の知る由もない答えを得られる環境。社会実験の場ですね。


le 2 vendredi 金曜日
//一日続く雨//朝から晩まで止むことなく降り続ける雨の金曜日。特に14:00頃は竜巻でも近くにあるのだろうかと思うくらい横殴りの雨に変わりました。明日は大府で素敵な陶器市がありますが、雨は明日には上がるとのことで、皆さんホッとしていることでしょう。素敵な週末になりますように。

本日は午前は買い物、午後は作陶。雨音感じながらの作陶は、昔はいつかの夢でした。有難いことに、止む気配もない外の雨音を聴きながら、色々作る、なんと至福な時間でしょうか?そう考えると、夢って叶うものなのですね。今していることは、昔、強烈に憧れていた夢の光景でありましたもの。時間差があるので、別個で考えてしまいますが、夢がかなった瞬間!!!!と大喜びしても良い現象なのですよ。

明日は土曜日というのに休日感が全く湧かない。日産には寄るのですが、この用事を済ませたら、工房に籠るのでしょうね。


le 1er jeudi 木曜日
//今月、51歳//6月が始まりました。今月、51歳になります。2001年から毎日日記をupしていますが、紙にインクではないので、消える時は一瞬です。そう考えると長大な日記ではありますが実に脆い存在でもあります。  2001年、始めた頃、50歳で陶芸家になっているとは、全く想像していませんでした。ですから、この巻物のような日記には、私が如何にして陶芸家になったのか一部始終が書かれています。

瀬戸を去って気が付いたことは、20kgの粘土を瞬く間に使い終えてしまうこと。前職の頃も瀬戸時代も自宅陶芸は週末のみで、使用量は知れていましたが、これを生業にすると、一袋があっという間に無くなります。

嵐の前の強い風が吹き始めてきました。明日は横殴りの雨を見ながら作陶です。これは一つの理想の過ごし方でもありますが。


 
→→→先月の日記←←←