もともと、僕は誰かを愛するということができない性分です。老人に席を譲ったり、そういうヒューマニズム的愛情は脈々と湧き上がっても、世間の言う恋愛感情は干上がっています。



自分では分かっているのです。口外するのはコレが初めてですが・・・
恋愛してもいづれ別れる。恋愛という感情を持つと、恋愛のできない(恋愛の仕方さえ分からない)僕は、もう強く生きれない。   真面目とか寂しさとかタイプはあっても、誰かを好きになってしまうと、自我が崩壊するような気がしまして。  過去において掲示板やフォトメでハニー募集なんて載せて、なんとなくデートしたりして、もちろん彼に悪いところもないのに、もう何度となく、自分から去ってしまった。

でも、コレで良いのです。前はそれを不自然に思って悶々としましたが、治すことはできないと今は達観しています。

ってことで、この手の泣き言はもう日記に書かないと思います。


メモ書き。

もう一度言います。

未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。

だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。
自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。
点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。


結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。
信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。


<< Steve Jobs >>


深い自虐の念と反省と訓戒と慟哭と焦燥と、そういうものがエンジンをかける手段だと思っていた。  
だから、いかに愚かな選択をしていたのかを数え上げ、自を嘲笑し蔑むだけ蔑み深い傷を負わせることが必要だと思っていた。

なんと愚かなことをしていたのでしょう!??!!

エンジンをかけるとき、それは無垢の明るい未来。

重い腰とぼやいていたのは、深い傷を負わせるには、まだ不充分なアレコレを探すのに、時間がかかっていただけのこと。

深いマイナスの境地から這い上がることしかスタートの手段を知らなかった。

なんと愚かなことをしていたのでしょう!??!!




なんら不満も無い。
ただ、新しい事に挑戦したいだけ。
その新しい世界に無性に入りたいだけ。



と、言いつつ、僕は人を愛するのが苦手です。それは怖くもあるからです。  

誰かと仲良く遊ぶ、それよりも親密な世界ってなんだろうか??    愛とは、攻撃や誹謗。批判や慟哭・戸惑い・疑念、そういうものから最も距離を置くべき存在だと思う。  

辞書で「愛」を調べれば、先程の単語は、どんな大辞典でも出てこないはず。       

しかし、その愛というのは自分にとって恐怖と隣り合わせ。
      


地下鉄で老人が席もなく立って居たなら僕は迷わず席を譲るタイプである。  

 そうではあっても誰かと恋愛関係になるのは怖くてしょうがない。  だから、そういう話があったら自分から御破算になるような、不快な行動をしてしまう。   愛が深くなるのは耐えられない恐怖。

それは振られるのが怖いとか、そういう類ではない。



この歳になると、「結婚の勧め」は変化球を含めて多い。

答えは幼少の頃に思春期の頃に見出していたのですが、最近、それを文章化できるようになりました。

結婚を断り続ける理由。
それは、性的趣向もあるのでしょうが何にも増して僕を震え上がらすのは、

結婚は怖い。



愛の最高ランクに位置する事象が結婚であったとしても、僕の知る結婚とは、言い争いと、非妥協と憤慨と涙と閉じこもりと。


それを勧められると、まるで世間体のみで個人の幸せなんかは無頓着なんだと、最も血の濃い間柄にあって困惑してしまう。

でも、心配してくれての事だとは重々承知している。





静かで平和な日々のためには、
やはり僕を一人にして欲しい。



結婚もしなければ、この世界にも色恋話もない。
その元凶を知るようになって、立ちはだかる些細な壁を越えられない自分がいる。  無理に壁を越えようものなら先行する恐怖に、情緒も不安定になり、まさに忌み嫌っていた言い争いを自分から先制するであろう。



夢に描く楽しい日々は、素敵な料理を食卓に並べ友達をパーティーに誘い、その喜ぶ面々。
 車のCMにも出てきそうな美しい道を一人ドライブしている自分。

こうありたいと思う日々に、決して恋人は現れない。



将来を占うなら、これから先も僕には色恋沙汰はないであろう。


それを楽しみ焦がれている自分が、
                  どこにも存在しないからである。



答えは出たような気がする。   少し涙。