septembre.2014



le 30 mardi
//今後しばらくは//噴火が終息しても、5年10年の単位で御嶽山には登れないのか!?
何度も登った山ですが、一番印象に残っているのが、2003年の旅の記録

9月も本日で終了。早いですね。本当に早い。


le 29 lundi
//物凄く// 祈りたい気分なので、夜にその時間を設けます。

さて、地下鉄が水没した日、朝、尋常ならざる急ブレーキの音がしました。やはり事故です。
この異様な音は周辺の人を呼び寄せ何人かと会話をする。
30代も半ばを過ぎた男は、両腕からタトゥーが多く見える。ところが、この事件を接点に会話するのだが、彼は人との接点・会話が楽しいらしく、いろいろと積極的に話すし、僕の気持に入り込む傾聴と言うか、接点を長続きさせようとする会話の仕方に、基本は寂しい人なのだと感じ入る。寂しいから目立つことをし、目立つ故、会話の幅が狭くなる日常。本来、話すこともないだろう僕との会話を楽しむ姿に、数日たっても思うところ多々ありなのです。

//あそこまで他人を//侮蔑するのは、たぶん、自身の生活も疲弊し、やり場のない鬱積した感情があるのでしょう。御嶽山の惨状を某掲示板で見ると、同じ日本人としては考えられない発言に閉口してしまいます。  

いつかの日記にも書きましたが、具体的な行動が出来ないのなら、心の中であっても良いから、困っている人には心を寄せるべきと書きました。その連帯の役割こそ、自身が困ることなく過ごさせてもらう妙理だと。祈る人は、引き続き祈るべきだし、それが役割として求められている。。

最後に、偶然の一致かもしれませんが、本日帰りの地下鉄で、ある老人がipadで音を出してゲームに興じている。最近、僕は行き帰りの地下鉄で新約聖書を読み進めていますが、なかなか集中できない。一向に止む気配もないので、祈りました。この節が読み終えるまでに、迷惑を自覚しないと、明日の朝まで、ipadは不機嫌になるぞと。さて、その節を読み終えた瞬間に、その老人はゲームを止めました。あまりに時が一致したので、少し空恐ろしいものさえ感じる。


le 28 dimanche
//想像以上// 31人とか、昨日では考えられないことです。命ある人がまだいるのなら、是非とも神の御加護を。

NHKスペシャルを見ました。老後破算。片や子供の貧困とか、この日本はどうなったのでしょうか??? 
こういう報道に接すると、やはり自分も身構えてしまう。公的な福祉が向上するとは今後考えられないし、年金水準が上がる期待などあり得ない。健康は下降線をたどるし、年収だって同じこと。
問題が起こるまで何も考えない生き方も、対策としては一つなのかもしれない。極限まで脳天気でいられることに価値を置いたのだから。
でも、見聞きし想像してしまう人は、やはり身構えてしまう。ここに僕のケチケチ精神が発揮される。いかにして支出少なく生きるのかと。老後、一人この家に住むとなったら、庭と言う庭の全てを耕すでしょう。そして車を放棄したら車庫を穀物倉庫に変更して、太陽光を利用した調理器具は購入しますね。体動くうちに冷凍庫と塩は購入しましょう。あとはサバイバルを楽しんでぴんぴんコロリといけば良いのですが。
今の家庭菜園は、野菜が主たる栽培品目。しかし窮乏生活に対応するためには、エネルギー源としての家庭菜園でなくてはならない。芋を植え、裏作に蕎麦か大豆を撒く。垣根は早々に撤去してお茶の木にし、梅の木は梅肉エキスとして何本か。今ある柿の木は渋柿に代えて、干し柿と柿渋に。と、いろいろ考えるのです。

と、まあ、老後のことなんて先とは言っていられません。働けれる年数は、貯蓄できる年数。それは毎年一つづつ減って行く。


le 27 samedi
//御嶽山噴火!!// 御嶽山は10回ほど登っていて、陶芸をしていなかったら、僕も今頃はって思うところあります。僕にとっての御嶽山は、山頂から煙を出す活火山。ところが1979年の水蒸気爆発以前は、噴火なんて記録もない、噴火なんてしない山との認識だから、驚いてしまいます。

想像以上に、時間が経過するほどに深刻なニュースが入ってきます。噴火のタイミングとしては最悪だったので、今後が心配です。それと王滝村の財政も。破算一歩手前の村で観光業が壊滅になったら、もやは現金収入の道が潰えたも同然。とても気になります。外国に援助ばかりする外交も軌道修正で、ここは王滝村に公費の投入を。


le 26 vendredi
//会いたくて飲みに出る//でも、東京に出張でした。あははは。
今週は、月・金と休みの前に飲みに出ている。こんなペースはイカンイカン。


le 25 jeudi
//暑さで死ぬことはないけれど// 今年の夏、暑さで死ぬ思いはしませんでしたが、来年は死の淵を彷徨うかもしれないという恐怖はあります。シベリアの捕虜収容所で冬を生き抜き、命ながられた感覚を、猛暑の夏は、その終りに実感するのですが、今年は心配無用で安堵するものの、夏の暑さが良心的範囲を逸脱する恐れは、やはり温暖化の影響で、この5年10年と持ちつつあるのです。

地下鉄名古屋駅水没。瞬間的に隣の工事が怪しいと思ったのですが、案の定らしい。。。。

le 24 mercredi
//夢に出てきた// 惚れたんですね。ああいう人がタイプなのだと。自分は心から人を好きになることはないと思っていたのですよ、、、なのに夢に出てくるとはね。生まれて初めてです。

だからといって、どうする訳でもない。愛の逃避行をする歳でもないし、花弁を一枚づつ風に飛ばして「好き・嫌い」なんてする歳でもない。特に、この歳になると、そういう感情を未だに吐露すること自体、見っとも無いような気がして。。。。

でも、夢に出てくるのですから、琴線に触れたんです、あの人は。


le 23 mardi
//人の業は、、、// いやいや恐ろしいものです。便秘騒動で余命いくばくと思っていた頃は、仙人みたいな考えに至ったのですが、今日の僕は、また欲に満ちたなんとも人間的な考えがグルグル頭を巡る。そもそも、悔しい~と思ってしまうことが、まだまだ生きる辱めって感じなんでしょうね。少し前は、悔しいと言う感情は一切湧かなかったのに。人の業です。


le 22 lundi
//月曜日は金曜日// だって明日はお休みですもの!!!
三連休は年に何度もありますが、こういう休みって金曜日の華やぎが週に二度もあって、これはこれで良いですね。
久しぶりに飲みに行きました。マダム焼の冷酒器揃えを差し上げる。
この前はフランスに旅立ったし、良い子には旅をさせましょう♪


le 21 dimanche
//死期を悟ると// 今回の便秘騒動は、実に良い経験でもありました。
真剣に、自分は死ぬであろうと考えるまたとない機会。
まず、意外にも心はデカく、余命何カ月と宣告されても事実の全てを受け入れるしかない、と冷静。それで、では何をすべきかとシュミレーション。


若くして死ぬと言うことは、命ある限りアレコレ出来るのだ!と、老人の死ではあり得ない活き活きとしたものを感じ取れたのも、今回の収穫。

人生、そんなに多くのこともできないし、やるとしたら、生涯に最後の機会なのだと思い始める。全てを快く過ごしたいと思うと、全てを受け入れることが出来、許せるのだと、まあ、真剣に死ぬであろうと数日考えた証拠です。
結果的には、キリストの復活ではありませんが、人生は今後も続く。
これも何かの思し召しだと思いまして、この間に学んだことは貴重だと今後に活かしていきたいものです。


le 20 samedi
//心晴れやかに作陶// 先週末の早退や欠席は便秘であると申し開きをし、久しぶりに晴れやかな気分で轆轤を回しました。
やはり、僕には、コレしかないようですわ。


le 19 vendredi
//ちょっと強めのお薬にしますね// ここ数日、僕は死ぬかもしれないし、そうでなかったら手術か長い闘病生活だろうと覚悟していましたが、ただの便秘でした。
いろいろ検査した結果、悪いのは、やはり尿酸値だけでした。
腸閉そくか大腸がんだと信じてからは、人生のなんて短きことかと考えたりもしていましたが、便秘で、人生再設計!!

ほんと、苦しかったです。二度と経験したくない、恐ろしいものが、便秘。


le 18 jeudi
//意味ある良い時間// いづれ詳しく書こうかと思いますが、いま、とても貴重な時間を送っています。この歳で、これを経験するなんて、実に有難いことだと思うのです。

暫くは忘れないために書く日記です。

昨日の続きですが、その中にあっても抜きんでた人と言うのは、内在する複数の僕の、各々が過ごしてきただろう彼らの生き方に思いを馳せ、何を得てきたのかと、彼ら個人の最大の業績を理解して表出し融合していく人なのだろうと。内なる対話があってこそすれですね。


le 17 mercredi
//いろいろと考えていることを少しづつ// 僕の考えに、人の一生は、僕に内在する何人かの前世の魂を一つに融合して、天に捧げる一連の行為。と、この考えに至るようになったのは、輪廻転生を信じる僕としては、何人かを一つにしないと辻褄が合わないのです。
この世からあの世の魂の流れが一方通行なら、生命の歴史があるだけあの世には魂があり、東京の通勤ラッシュをも上回る過密な世界になってしまう。それは輪廻として歪である。

見る人には人の前世は分かるけれど、前世の前世が見えないのは、まさしく、この世に生きる人間は、複数のあの世の魂を、一生の時間で溶かし融合し、死ぬ時に一つの個性として天に捧げる。
人口調節ならぬ、魂の調節だと思うのですよ。

自殺がダメなのは、僕に内在する多くの思いも無駄にするから。自殺するほどの窮地に立たされたら、僕に内在する人に助けを請うと、必ず助けてくれます。だって、僕に内在する人の目的は、僕の一生を通して一つになりたいのだから、頓挫なんて冗談じゃない!ってことになりますもの。

そして、最近、特に思ったのは、人はやっぱり人。いくら複数の前世を融合するからと言っても、それで超能力者や仙人の様にはなれない。輪廻転生を繰り返しても、天に捧げる魂は、やはり平々凡々な生身の人間なのだと。 この穏やかな繰り返しだと思う。内在する複数の僕は僕を助けてくれるけれど、その存在を知ったからと言って、キリストやブッダになれるわけではない。良くて、人は少しだけ成長して、あの世に行く程度だと思う。まあ気負わず普通に生活して生命を全うするだけでも、いや、この単調こそが生きる最大の目的だと思うのです。溶かし一つにまとめる時間なのだから。


le 16 mardi
//明日は水曜日// 早いですね~~~ 三連休の偉大さは終わってからも実感する。
でも、山奥に、そう一つの夢に山奥での自給自足の生活。意味があるのは晴れとかの天気であり、三連休とか関係ないんでしょうね。

あの、夏焼集落を今も思う時がある。
世の中がひっくり返っても、○○ショックとかデフォルトとかに遭遇しても
生活が変わらない強さ。
だって恵みは大地から得るのであって、証券取引所ではないのだから。

そういう生活を夢見る時があります。一人で過ごすことは好きだけれど、
それなら、いっそ極めてみたいと考えたりもするのですが、やはり、そんな勝手は許されることもなく。

日本が戦争から立ち直れたのは、大地の恵みで生計を立てれる国民が、あの頃は相当な割合で存在していたからかもしれません。終戦後の、もっとも疲弊した時期に都市部においては買いだしなどの現象も見られましたが、敗戦国の国民が飢饉に陥ることもなく、難民収容所の様なところもなく、つきつめれば、目の前の田畑の恵みに戦争の勝ち負けはないのだと。
国破れて山河あり。
そういう強さを持ちたいものだと。


le 15 lundi
//ガボーーっと// この連休に焼き上がったマダム焼


その中から、一つ、秀逸な出来の急須が。



明日から4日、お仕事です。精神を統一して静かな時間を設けましょう。

//案外早く//死ぬのかもしれない。少し前から、そう思えてしまうのです。では、何で死ぬのかと言うと、持病もないわけで良く分かりませんが、そう言えてしまうのは、「長生きしたい」と、これまた良く思うからです。其れに添えるものとして、僕は日記に死生観とかいろいろ書いてもいますが、この歳にして、その答えを見出してしまったので、お呼びがかかるのかなって。
だから、最近、強く「長生きしたい!!」と思うのです。変でしょ。いろいろ考えて死ぬことが怖くなくなったので、死ぬのかしらって。

いかんいかん。死ぬわけにはいかん。
昨日の日記にも書いたけれど、「背負っているのさ」
試練は乗り越えたかもしれないけれど、乗り越えたからと言って好き勝手にしていい訳ではない。強くなったのなら、その愛で手を差し伸べなくては。祈りを捧げなくては。
長生きしたい。ありとあらゆる人のために祈るためにも長生きしたい。


le 14 dimanche
//背負って成長したのなら、//


思うのです。何かしら背負っていると。
それは、効率の側面から言うと捨て去って身軽になるべき存在なのですが、
心ある人間として、見捨てることが出来ないとか、そういう思いで「背負う」

背負うとは、耐えることだし、差し伸べる手であり、益にならない奉仕でもある。

背負うことを捨てた人は、本来あるべき循環から離脱したような気がする。
自身の快楽のために背負うことを辞め、自分のことだけしか考えない。
これは一見、身軽な生活を手に入れたようにもみえるが、人の一生を考える上で、本来あるべき循環から逸脱した人は、その先はやはり本来在るべき姿と別なものになっていくのだろうか!??

背負って成長した人は、その愛ゆえ、また手を差し伸べるべき存在であり、それは新しい形の背負いなわけだけれど、ひょっとして死ぬまで、この流れの中に生きるのだろうか。


le 13 samedi
//第83回・せとものまつり// 今年は晴天だったものの、規模が少し小さかった。これには正直残念である。

改めて心に残る出来事を書き記します。
駐車場に停めて会場に行く。そうしたところ、フェンス一つ向こうに朝鮮初級学校があり、ここも駐車場として解放してある。(ちなみに、朝鮮学校は1000円取られます)看板があり、トイレ利用可とありまして、車は瀬戸市の無料臨時駐車場に停めたわけですが、朝鮮学校のトイレを借りたのです。だって朝鮮学校に入る機会って、これを逃すとなさそうなんで。

入口の在日の人たちに、借りても良いですか?と尋ねたところ、快い返事が。
さて、謎の学校に入ったのですが、見える範囲に、偉大な指導者の肖像画はありませんでした。それより強烈な印象は、老朽化が甚だしい。
オンポロな建物というより、彼らの置かれている環境を考えざるを得ませんでした。

修繕する財力が枯渇しているのは、劣化した建物が雄弁に語っています。
ところが、この建物は生きている。デジカメで撮られたサッカー部の活き活きとした写真。
子供たちに、いろいろな所作における朝鮮語の張り紙とか、親は教師は、彼らなりに血の通った教育を今もなお子供たちに施しているのだと、これは良い発見でした。

帰り際、お礼のあいさつを述べたところ、気をつけて行ってらっしゃいとの言葉を頂く。
良い時間でした。

もし、僕が、朝鮮学校なんて!!と帰り際、不機嫌な視線を向けたら、彼らもまた仏頂面だったでしょう。日本と朝鮮には複雑な問題があり、まして朝鮮学校は北朝鮮の指示で動く機関として激しい嫌悪の対象であるのも事実だと思う。もちろんそれは根拠があってのことで北朝鮮の所業の当然な帰結だとは思いますが。

ただ、個々人として、在日の人たちから親切を受けたなら、やはり心こもった礼は述べるべきである。当たり前のことですがね。

少し視野を大きくして考えると、朝鮮も韓国も行動は敵対国のそれに通じるものばかりで、どうしても身構えて、こちらも応戦するような考えになるのですが、
実際の市民生活に置いて、接点があって、それが善良な交流であるなら、人としての礼は尽くすべきであり、朝鮮人だから言う必要はない!となってしまうと、もはや人間として落第である。


le 12 vendredi
//床で深夜二時まで// 仕事終わって何していたのか。床にゴロリで、目が覚めたら土曜日の2時。  金曜日の晩を華やいで過ごすこともあるけれど、全く無意味に過ごしてしまった。


le 11 jeudi
//慎ましくも最大級の楽しみ// せともの祭。ブラブラ歩いて、途中、お茶する程度なんだけれど、それがとても心地良い時間。もちろん、今年も一人ですよ。

いづれ行き交う人を眺める立場になりたい。


le 10 mercredi
//全く許せれない//全盲少女に対して蹴りを入れた犯人。
弱き者を迫害して快楽を得る・憂さを晴らす輩が多すぎる。

前にも書きましたが、人は死ぬ瞬間の「見ている道」をそのまま進むと思っている。
死を認識した時から始まる人生の走馬灯で、悪行を繰り返す自身の姿があり、悪行の果ての今の死と認識しているのなら、その道が、死後の世界。後悔や懺悔、因果応報なんてことを認識したところで、悪しき道を進むだけ。
その逆に感謝や良き思いに溢れるのなら、満たされた道をただ進むだけ。

そもそも、悪行の果ての人生に、穏やかな死は考え辛い。かなりの確率で、後悔の道を進むほかない。

即死の人もいます。おそらく、魂は死んだことを認識せず浮遊している。葬式などの弔う姿を見て、ようやく認識し、人生を振り返るのだろう。そして、旅立つその時に、どこを向いているかで、今後のあの世が決まってくると思う。

後悔しながら死ぬことは、死後も後悔し続ける。だって後悔の道を進んでいくのですから。

生きているうちに良いことの積み重ね。ただそれだけだと思う。
我が人生、良いことが多いじゃないと、感謝されたこと実に多いじゃないと死ねるのなら、満ち満ちた道を進んでいく。人生は考えることも悔い改めも自由なのだ。良い選択をすることが自由なのだ。それが生だと思う。

死ぬ時、選ぶことはできない。ただ生前の人生の質で進むべき道が決まってくる。
死んでからの悔い改めや良い選択など、それは全く出来ない。
生と死の最大の違いは良きを選択する権利があるかどうか。良きを選べ。徳を重ねよ。窮する者に手を差し伸べよ。愛と祈りを持って人に接しよ。


le 9 mardi
//私に出来ることと言えば// 祈ることだけです。
見捨てるのは簡単。関係ないと言い張れば関係ない。自分の生活に精一杯だから。
そうやって関係を断ち、気楽を得ることもできる。

だが、僕はとことん付き合うつもりだし、助ける手立ては話を聞くくらいなんだけれど、見えないところで心をこめて祈りを捧げます。

それは先日の日記にも書きましたが、血の繋がりもないけれど、放っておけないのです。
祈りの効用は度々書かせてもらっていますが、だからこそ許す限りの時間をそれに捧げたい。

思うに、不器用な人が寛容の精神で救われると言う旧来のシステムが機能しなくなっている。あまりに殺伐として、能力のない人として淘汰の対象になっている。競争・競争、また競争。
でも、その先には多様性がないゆえ、競争に負ける決定者の姿があると思うのですが。

不器用な人は悪人なのか!?
それでも彼ら彼女らは生きていかなくてはならない。僕が彼らの生活を面倒見る余裕はないので手助けをするとしたら、話を聞くこと寄り添うことなんだけれど、祈りの効用に気が付いているではないか!!!! だから、僕は祈らなくてはならない。
給料以上の寄付は出来ないけれど、祈りの世界は無尽蔵。祈るだけ在庫が少なくなるなどあり得ない。あの人にもこの人にも、見たことはないけれど話を聞くだけの人にも、祈りを捧げることは簡単です。祈りを捧げることの毎日。いづれ効果的な祈りも見えてくるでしょう。万が一、自分自身がピンチの時は、捧げた祈りが自分を救うことにもなるのです。

どれだけ世の中が殺伐になろうとも、僕は祈りを捧げる人でありたい。


le 8 lundi
//この空気にお天気// 秋の空。 猛暑だと、10月の中頃でようやくの陽気です。
まさしく、これが聞きたくなるのですよ。こういうお天気だと。



増税しても、それで老後の心配が一切なければ良いですよ。でも、実際のところ借金で首が回らないからする増税で、納税者の福祉とは無縁。税金上げた分、将来の備えをその割合だけ減らして帳尻が合うのかと言うと、全くあいませんものね。
そういうわけで、将来の備えは社会保障が当てにならないので従前のごとくするわけだから、そりゃ不景気になりますよ。浮いた気持ちで買い物など出来ますかいな。

幸い、僕はこの歳にして、この程度の支出で心底満たされる生活を見つけましたので安心もできるのですが。。。。


le 7 dimanche
//何やってるの!?// 僕の行動と言えば、蛍光ペンで5本もあれば事細かに表現できる。
寝る。仕事する。作陶している。ややや。3色食でした。。。

もちろん本日も作陶。さてさてさて、皆さんはお休みの日に何して過ごしているのでしょうか。
これが不思議なのです。僕は陶芸か美術展やクラフト・フェアに顔出すか、それ以外の過ごし方は、年に5-6回。大型の旅行であったり田舎に戻ったり。あとは正月の独特な過ごし方。

することがない、と言う人の週末って、かなり興味があります。
すること無くても時間はあるのだから、何かをしているはず。これが全然想像もつきません。
昼寝? パチンコ?? 勉強??? 誰かを誘ってカフェでおしゃべり???? おデート?????? いや、デートできる人は、することのない週末なんて存在しないから、これは間違い。

そういう人は、むしろ週末は苦手に思うのでしょうか??

明日からまたお仕事。5日仕事すれば、2日も好きなことに没頭できる。いやいや、次の週末は三連休。なんて幸せなのだろうか。今晩も、寝る前にしっかり精神統一♪


嬉しい悲鳴。秋は、そうですね、春の二倍の頻度で、器に関する企画がある。僕にとっては轆轤から離れる良い機会。今度の土曜日はせともの祭♪
その土曜日をどう行動するか。電車で行くか車か。
電車のメリットは瀬戸での飲食に制限がない。
車だと、帰りにいつもの場所により、出来上がりを引き取れる喜びを一日前倒し。

//アハハ。嘘付けない、どうしよう// 10月某日、個展をするからと見に来て(買いに来て)とお誘いをうける。その老人は弁は立つものの、作風は今一好みではなく、コレに金を払う行為が納得できないものの、去年は祝儀みたいな感じで買ってしまった。
用事あるからと言ったところで行くところは決まっているから嘘付けないのです!!!だって同じ所で作陶しているのだから!!!!!!!

去年と同じで、今年は別な人たちとの三人展。去年も、その老人ではない人の赤楽茶碗が欲しかったのに見合わせたでしょ。行くとしたら今年は、90を越えた最高齢の人が出ると言うし、そちらが欲しいのよね。

と、心の苦しみを、気の合う人にそれとなく話したら、全く同感してくれて、慰められたと言うか、、、、

付き合いなんですよ。日本で生きていくための処方箋。


le 6 samedi
//大織部展// 800円で、この内容には大満足です。いやはや想像以上でした。
と、言うことで昨日の日記とは全然違う結果に。
本日は釉薬だけして、そのまま多治見へ。
じっくり見入ると疲労困憊するね。それは作陶以上です。

思うのだ。美しい器の前で、僕はジッとして動かない。そして少し角度を変えて凝視し、また戻っては見入る。そして疲労困憊するのだが、これには意味があると思っている。
その美しい碗の姿形を脳裏に焼きこむための作業。強いて言うなら、記憶の新回路の増設。
つまりですよ、新しいモノを覚えたり記憶すると言うことは、疲労困憊して当然。脳の回路を新設するといことは相当のカロリーを消費すると言うわけなのです。


le 5 vendredi
//空の色って何だっけ??// 曇りや雨の毎日です。
帰宅後、出歩こうかと思ったけれど止めました。30代と40代の違いはココだね。

帰りの地下鉄で、ふと、作陶のデザインが浮かぶ。
こういう電撃的な閃きは大切にしたい。

ところで、明日は陶芸を切り上げて多治見で国宝の碗を見るつもりでしたが、日にちをずらそうと思う。と申すのは、僕は美術展などを見るとしばらく消化しきれず轆轤で混乱が生じるのです。良いモノを見ると関係ないモノを作っていても邪魔してくるのです。
だから、閃きが成就しないと思いまして、日にちをずらそうかと。

まあ、直前の感覚に従いますので、何ともだけれど。


le 4 jeudi
//不思議なのだ// 夕暮れの駅は人で溢れかえるのに、彼らの全てに寝る場所があり、最終的にはそこに向かう。そして、そこには窓があって見える景色はそれぞれに違う。
これが不思議で、42なのに、ああ不思議ぞと思う時がある。

僕の行動も、見られたら不思議すぎる内容で卒倒するかも。そこまで単独行動なの!!って。
目の前には興味や関心事がある。
それは発信している。自然と集まる仲間こそ、行動を共にできる人。
と、申すのは、僕は自分の趣味に人を強制させたくないのです。

僕は作陶だの陶磁器祭りだのと行動するのですが、全く人を誘いません。
発信はするから来たいという人がいたら、ご一緒する。
だから、陶芸を語る人は、非芸であり性差年齢の区別なく。ここに極めて重要なものを感じます。一流を目指す、より高度な域に到達させる。そういう情熱に芸の枠を当てはめたくないのです。芸は芸で色恋に求めれば良いのですが、興味全般一切合切を芸の枠で完結させたら、今でも作陶の情熱はあるのだろうかって思う。憧れは、その老人の卓越した轆轤にあるのですから。

気が向いたら週末多治見で大織部展。気が向かなくても9/13はせともの祭。
凄く楽しみだし、凄く楽しいのです。だから、一人で腰掛けて弁当食べたり、お茶している姿見ますよ。やっぱり一人だと!!


le 3 mercredi
//濃縮したボケーの開発// 度々嫌悪するのが、帰宅後就寝まで寛ぐのですが、ホント、それ以外一切しない自分の姿。寛ぐには、日中の欠損の穴埋めと言う意味もあろうが、早々に寝るのだから、何かもう少しアレコレしたいのですが、スイッチがoffになると何もできないのですよ。


le 2 mardi
//採算ライン、大幅低下!!!!// 商売人の気質があったりして。
とにかく頭が良いとしか言いようがない!!!!!
と、申すのは、急須は10個中、7-8個が納得いかない失敗作。外見的には問題ないのですが、湯切りや微細な欠け、焼成時の若干の歪みなど。
それらをですね、ドリルで穴をあけまして「鉢」にするのです。
そうしたら、どちらに転んでも意味あるわけですよ。オホホホホホホ。

急須型の鉢なんて、世の中にないでしょ。うししししし。

夢は、ミニ盆栽と日本茶カフェの店。ギャラリースペースもあって。
もっというなら、店の奥が工房で、お客がいない時は制作に励み、来たら来たで応対する。
時間に全くの無駄がない。頭、腸良い♪


le 1er lundi
//今月のお出かけ情報// 9/6-7の週末は作陶三昧。
9/13はせともの祭 9/14GIFUクラフト 9/15作陶
9/20-21作陶三昧 9/23作陶三昧 9/27おおくて20のてのひら 9/28作陶三昧

あと9/6から大織部展

毎年のことですが、春と夏の終わりから秋が終わるまで。この期間に陶芸関係のイベントが集中する。まあ、作家さんに言わせると夏くらいは造らせろってことなのかな??

行きたいところは山ほどあるし、造りたい気持ちはますます燃え上がるし。
時間が全く足りないです。



→→→先月の日記←←←