令和5年8月août.2023


le 31 jeudi 木曜日
//水汲み//九月の中旬より週末はほぼ出店になるので、本日、飯田市南信濃和田まで水を汲みに行く。二年前の6:45、可愛いムクちゃんは、まさにこの湧水を口にしながら昇天したのですが、何たる偶然、同じ時刻に改めて汲みに行っている。その時刻にあわせて、私も口に含む。この素晴らしい湧水を改めてムクちゃんに捧げる思いで。

今はもう悲しい気ちなどは無いのですが、それでも毎日のように絆を深めるかのように可愛いムクちゃんのことは思い出すし話しかけています。その心の会話が、思い出話ではなく、今まさに起こりうる出来事を語り掛けたり。そうすると確かに気配を感じますし、何かしらの交信は成立しているのでしょう。きっと私の魂が続くまで、、心の対話は続いていくのだと思っています。

山の方ではトンボが飛び交っていました。名古屋でも夜には涼しい風が通り抜けていきます。

頑張るしかないのだ。心は常に積極的で命続く限り行動し続ける。
可愛いムクちゃんとの思い出は山とありますが、私への最大の贈り物は、命の最期を見せてくれたこと。その最後の瞬間が来るまで、心は清く、例外なく一生懸命であったこと。生きている間は、心は清く一生懸命。これは難しいことでもなく、ムクちゃんが私に教えてくれたこと。出来るのだと。

明日から九月です。8月に感じていた諸々の身体的違和感も幸いに癒えました。一生懸命に積極的な心持で日々精進して参ります。


le 30 mercredi 水曜日
//二日目//名古屋⇔津の二日目。つくづく思うのだが、四日市の渋滞。南北の道路が国道一号線と23号線のみで、限界をはるかに超えた交通量が毎日。伊勢湾岸・川越インターから盲腸線ではあるものの、四日市の港湾部を南に貫く四日市高速湾岸線があればと強く思う。10km程の支線ですが需要はあると思うのですが。


le 29 mardi 火曜日
//苗字と名前//特に苗字ですが、女の人だと結婚すれば変わる。そういう文化がありました。これは陣痛と同じで広範の男には分からない感覚でしょう。男にとっては、姓も名も生涯変わることなく自分を表すものなのに既婚女性は、その半分が変わる。生涯通じて寄り添ってくれるのは名の部分だけ。

これは女性の視点から見るべきだと思うのですが、名前なんて川の流れみたいなものよ!と、岩のように動かない男性的感覚を否定するはずだが、この変わってしまう人生の大事件であっても、大切なのは中身であり、名前なんて服みたいなものよと、女性の方が魂の本質を見つめている気がします。

これから私が、どう名乗っていくかは、女性に言わせれば大したことではないのだろう。本質は魂。名前が変わろうが同じだろうが魂が腐っていたら、それでお仕舞。一貫する我が魂を、如何様に名乗るのか。極論を言えば記号でも良い。我が魂が輝きに溢れ私を照らすなら、名前?「('3')よ」「呼び方なんて無いの。存在気付いてくれたら、そこに私は居るわ」と言い放つこともできる。

小説家のペンネームも、才能が輝いているから、その意図的に名付けた名称に命が吹き込まれるのだ。作家とは、我が名を用いず、才能の輝きから何かに例えてみるくらいで良いのだろう。才能あっての名。いつでも切腹できる武士の短刀みたいな、名に命を託す緊張感を持ち合わせて、つまり大前提として魂の精進が必要なのだ。


le 28 lundi 月曜日
//一日何色?//陶芸(制作or販売) 睡眠 食事・入浴・午睡 余暇の4色である。この余暇に読書を持ち込んでいます。これに学習の時間も添えたいのですが。
今の私は誰かに強制されることもなく、全く我が裁量で時を過ごすことが可能なのですが、さらに時間が欲しい。

分析すると、陶芸に余地があると思う。我が陶芸にもっと価値を与えないと新しい時間が生まれないことに気が付きました。一万円稼ぐのに今の三分の一以下で達成できるように労働の造形の価値を上げないと貧乏暇なしになってしまう。上司がいるわけでもないから、誰かの圧力があるわけでもない。同じ造形をするにしても、万人誰しも認める更に価値のある想像が出来るか否か。


le 27 dimanche 日曜日
//9冊//古書を9冊買いました。一冊以外は全て戦前。
陶芸に勤しみ、たまの街歩きでは古書店巡り。そこで買い求めたものは家での楽しみごとになるので、街歩きも自ずと疎遠になる。これ、全て一人の世界。今は三重県に行った時の危機感から古書を多く買い揃えているのですが、生活の基盤が彼方に行ったら、余暇はただただ読書のみ。どんな生活になるのでしょうか?


le 26 samedi 土曜日
//背中痛い//連日同じものばかり作っていいるので、こういう症状も出てくるのでしょう。工房が大きくなったら、三通りくらいの工法を同時に行い、身体の負担を分散化しようと思います。

人生は短いと言いながらボーっとする。やりたいことが山ほどあると言いながらボーっとする。
これは精神の堕落からくるものなのか、それとも崇高な精神的調整の時間なのであろうか?自分の事なのにサッパリ分からない。


le 25 vendredi 金曜日
//有栖殿照栖//精神的指導者のウーマン師とかワンダー★ウーマンと名乗っていましたが、マダム哲学者・有栖殿照栖(アリストノテレス)でも良かったような。

さて本日、身体に異変が。あれだけ苦しんで、いつの間にか治った四十肩。今私は51歳なので、五十肩の再発の、つまり前兆のような違和感を感じているのです。人生で、あの痛みを二度味わうことってあるのでしょうか???しばらく様子見ですね。


le 24 jeudi 木曜日
//読書のための//新工房が軌道に乗ったら作りたいもいのに読書セットの試作。マグカップに豆皿、一輪挿しにお香立て、プレート、文鎮、筆置き。本を読む時に、手許に置いておきたい陶芸作品。色々作ってみて使ってみて取捨選択。

本日も曇天で冷涼な一日。庭からは虫の声で、これは読書せよとの自然からの誘いでしょう。

本も読みたいし文章も書きたい。陶芸は彼是試してみたい事ばかり。


le 23 mercredi 水曜日
//涼しい夜風//最初の変換【涼しいよ風邪】だった。。
本日は朝から待望の雷雨だったり、雨が降ったり止んだり。晴れ間は無くて曇天で、それで夜になったものだから秋のような涼しい夜風です。でも、連日の酷暑日がもたらす、気温が5度下がった涼しさであり、その下げ幅で言ったら、温暖化前で言ったら、お盆明けの8月後半は26-7度の到来であったのだろう。

よって、季節の風情を盆明けの26度前後に求めることはもう不可能で、前日比マイナス5度の到来がもたらす情緒に取り換えなくてはなりません。どんなに温暖化が進行しようが太陽の角度で、気温は下がってくる。その下がりに情緒を覚える。30度を越えようが、これを秋の気配とする。

//増収・増益//前職の枝分かれしたところは増収・増益だとのこと。指導者論で言ったら、プーチンとゼレンスキーを見ているかのようです。一方は権威で威張り散らかす割には表に出ず非常時というのに覚悟もなく籠城するような立ち振る舞い。もう一方は自ら最前線に行き兵士の士気も上がる。ボーナスも非常によろしいとのことですよ。

ということで背景とか条件は二次的三次的な事であり、まずは積極的な行動・心意気なのでしょう。でも、これは極端な事例だと思う。冷静に考えてみて、その立場に立てば相応の覚悟と立ち振る舞いは当然で、皆、多様ではあるが覚悟と積極的な心意気での競争。経営者はゼレンスキーA、ゼレンスキーB、ゼレンスキーCであって、片やプーチンで、ゼレンスキーというのは、余りに寓話的事例ではなかろうか。水と油、兎と亀ですもの。

つまり、そんな思考の持ち主が、その立場にいると言うことは極めて不自然過ぎる。なのに一向に覚悟もないとしたら、いづれの時期に【畳む】ことを考えての、そういう合意があっての振る舞いなのだろうと、これは私が在職の頃に思っていた。とりあえず、その立場の報酬は得るけれど、出来れば、その立場が長く続けば良いけれど、立ち行かなくなったら畳む。そのために特別な努力もしない、考えるべきは悟られないこと。


le 22 mardi 火曜日
//山から山のような//花。両手で抱えきれないほどの、お花。それと新鮮野菜。いつもありがとうございます。明日、母上が目覚めたら、少女のように踊りながら喜ぶことでしょう。

それにしても雨が降らない。周辺ではゲリラ豪雨もあるのに我が家の周辺では、前回の台風以降、全く降っていません。困ったものです。


le 21 lundi 月曜日
//何に向かって//父上の歩行リハビリに付き添い半月ほど経過します。歩行機能回復を願ってのことですが、今抗わなくては寝たきりになるとの危機感あってのことです。ただ効果あっても老いの道。仮に桜の花をあと何度見るかと思うと、数回か10数回か。結局、何をしても、その先は「死」が待ち受けている。老人になると、それがそう遠くない時期にと想定されるので時に悲しくもなりますが、全ての命は生まれた瞬間から死に向かう。

死は来るときに必ず来るのだから、お迎えの瞬間まで命を最大化するような積極的な気持ちで生きなければと思う。今はその命を最大化させ生き生きと輝きあるものとして、それ故の介助なのだ。

でも不思議です。死ぬことが避けられないのに、何故生まれる?????命の摂理は、そんな非合理的な事なのか?? この大真理を思うとき、死ぬのに生まれる、いやいや産まれて死ぬ、と考えるから非合理なのだ。確かにこの世に生まれて、いづれ死ぬが、魂は行くべきところに次元を移すと考えると、飽きもせず、この非合理を演じることが分ります。この大地で生まれ死ぬと考えるから非合理と思うだけであり、この大地は魂の通過点であると考えるなら、地球に滞在する儀式としての誕生であり死なのであろう。

よって私の命は、いづれこの地球で果てますが魂は引き続き行くべきところに行きまして、次の命の瞬間まであるべきところに待機しているのでしょう。魂は、時として命に姿を変え、また魂に戻る。この命時代の始点と終点が生と死なのだ。

では生きる意味な何なのであろう。永い魂の物語を考えるうえで【命の時代】が存在する意味。意味があるから、飽きもせず地球上で繰り返されているのである。大自然の大宇宙の構造がシンプルで意味あるものでらるなら、私の、命の出現にはシンプルだけど欠かしてはならない崇高な理念がある。

それは【進化】だと思う。昔から不思議なのは生物の進化。私(ある動植物)の時代に苦労したから子供には、、、と願っていたら産まれてくる子供は、それに対処できる能力を持つ不思議。簡単に遺伝子情報でと習いますが、そういう書き替えって誰がどこでするの??と。  私たちは、この地球で産まれ、生きている間に大いに成長し発展し進化への情報を命に叩き込んで、魂に預け新しい次元に運んでもらう。これが、この世に存在する理由だと思う。

だから生きる意味は簡単で、成長し発展し、私は何を学んで次に伝えたいかの、その価値ある遺言の多さなのだと。

幸いにもまた明日を迎えることが出来るのなら、無上の喜びに感謝して、与えられたその日を一生懸命に生きて、成長し発展し、、、たったこれだけの事だと思う。それを積み重ね、この地上での生を終える時、私は、これだけは伝えたいと、そう思える良き糧の多さこそが、この世に誕生した意味であり、生物学的に見ても最も崇高なことなのだろう。

生殖では肉体としての子孫を作るが、死は、良き糧(情報)を魂に委ねる、これまた最も大切な事なのだ。こう考えると芸であっても子がいなくとも、情報の移植である死という機会があり、そうと分かったならば、これに最大の価値を見出すべきなのだろう。

死は自ずとやって来る。それまでの間に、どれだけ発展し成長し伝えたい思いを多く実られるかなのだ。


le 20 dimanche 日曜日
//新しい時代の美しさ//残念ながら、私の渇望している江戸時代の気候は、もう二度と戻ってこないでしょう。今さら人類があれこれ工夫しても、理想とする気候には戻れないと思う。名古屋で東洋的な新・情緒を考えるなら琉球王朝の過ごし方にヒントがあるような気がします。

これからを考えるうえで、夏の11時から16時の労働は命にかかわると思うし、工夫して挑んだにせよ生産性は落ちる。幸い、私は自らの労働時間を選べるので、11時から16時は睡眠の時間にあてて、始業を4時から、終業を21時までとか、新しい発想で挑む、そんな生活も数年先には実行していそうです。

真剣さと積極性、これを前提に柔らかい頭なのだと思う。


le 19 samedi 土曜日
//落ち着きとは//この後の事を考えると、まだ登山も二合目あたりでしょう。例え外観が完成しても8割残っている。ところが私が頂上に立ったとしても、結局のところ新しい課題が発生して、新たな道を進むはずであり、落ち着くとは、多分、死ぬまで「完全」の領域には達することはできないと思う。


le 18 vendredi 金曜日
//コーヒーとドーナツ//父上を歯医者に送り迎えるまでの間に、コーヒーとドーナツ、それに古書。良い時間でした。早く街中で、こういう時間の過ごし方をしたいものです。

夢は、新工房に陶芸関連の書籍を。これを●●文庫と称し、それ以外の書籍を◎◎文庫として、時に古書の紹介などもしていきたいのです。よって、別アカウントが必要になりますが、それはほぼ全ての移行が終えたご褒美になりそうです。


le 17 jeudi 木曜日
//NHKの体たらくを補うものとして//NHKに対する批判は多いです。私の批判は、真面目路線を放棄した番組の構成。ドキュメンタリーでは、何処に必要性があるのかアイドルグループを同席させ彼女の反応も紹介。それでもって内容が高度になり深まれば文句もないのですが、専門家でもないただのアイドルグループ。そして下らない反応に時間を割く、全く番組の存在そのものが芸能事務所への資金援助としか思えない。

ここに動画を二つ紹介をしたいと思います。彼等の個人番組の方が遥かに優れて知識も豊富になる。もはやNHKの制作陣は烏合の衆と言い放っても賛同得られると思います。





le 16 mercredi 水曜日
//残り時間一か月//次回出店まで1ケ月後。まともに作れる最後の期間だと思って、明日から臨戦態勢に入ります。なんやかんやで前回の浜松から今日までノンビリ過ごしました。世間のお盆休みも今日で終わりの所も多いだろうし、私も明日から皆さまと同じように懸命に頑張ります。


le 15 mardi 火曜日
//慈雨//何故か名古屋の我が家の近辺は一か月ほどまともな雨もなく、そろそろ限界を迎えつつる草木でしたが、この台風の雨は正しく慈雨、慈しみの雨。

本日は終戦記念日。合掌。
昔、1960年代の文化は30年前であった。そんな認識を持っていた。ところが60年も前の事。関東大震災なんて誰も語ることはない。でも、小さい頃、それを証言する人をテレビで見たことはある。戦争の記憶が、今に言う関東大震災のような古色を帯びる、そういう時代も遠からず到来するのであろう。


草津節って旋律も好きですが、何故か温泉街の防災スピーカーから正午とか17時とから流れてきそうな、そんな光景を思い浮かべるのですが、これって現代の温泉情緒ですね。

こちらは昭和11年の和製ジャズ。服部良一さんの草津節。

台風も大きく西にそれました。といっても偏西風で東に戻るはずなので、弱いながらも明日も台風の外縁の気象なのでしょうか。お盆休みも16日までというところも多いでしょう。私は日常に通勤という項目が消え去ったので、もはや土日も関係ない生活であります。なので色々と思います。どういう過ごし方をしているのだろうと。それこそ草津温泉に行った人もいるでしょう。実家に戻って、今後の事を話している人、海外に行った人、全く台風で予定の狂った人。

例えば体中を顔も含めて赤いペンキを塗って生活すれば皆の注目を浴びます。どこに行っても驚かれるし道を開けられる。でも、その人に何か秀でた能力があるわけでもない。ペンキを洗い流せば見向きもされない。尊敬する人は、ペンキなど塗らなくても秀でた才能によって注目を浴びる人。集団で同じ踊りをして歓声を浴びるのではなく、一人マイクの前に立ち聴衆の心を奪う人。

人間として生まれたわけだ。どういう訳か芸でもある。だから子孫を残すこともない。なのにこの世に命与えられた訳を考えると、深遠な意味があり、その意味を夢中で昇華させることは絶対的に求められているのだと思う。注目を浴びることは簡単だ。赤いペンキをかぶれば良い。でも、それは甚だ愚かだとは幸いにして知りうるところには位置している。


le 14 lundi 月曜日
//お野菜臨時便//朝から各種高原野菜を山のように頂く。それと美しいお花も!!丁度窯出しだったので、あつあつの一輪挿しを御礼の品に。

台風が近づく割には、ちっともその気配がなくただただ暑い一日でした。明日、最接近するらしいので朝から養生でもしようかと。少しは気配が無いと、その気になれんのです。

明日は雨風強い中、作陶なので、これは情緒ある過ごし方。同じく、古書を読み耽る心地も趣がある。読み進めると知識も増えまして、【読書子ドクショシ】なる単語を発見。読書好きの人を指すそうです。今のように選択肢も多くない時代、読書は勉学に修養に娯楽に盛んな時代。読書そのものを随筆で述べたり、そういう本に出合うのが今の私の喜びであります。


le 13 dimanche 日曜日
//半分に折れている//昭和19年3月の本を読んでいます。この後、一年半後に戦争に負けるとは、聡明な人なら19年には勝つ見込みなんて無いと内心思っていたのかも。不思議なもので、読み進めると79年前の本である感覚が無くなり、最近世に出され今に読む、そんな感覚になります。この本は表も裏も表紙に当たる厚紙が真ん中で一本左右分けるかのように折ってある。当初は79年間のどこかで、意図せず折れ曲がったのであろうと思いましたが、読むにつれ、折れている方が読みやすい事に気が付きました。

昭和19年3月発行 戦時統制下のため2000部の出版のみ許可される
森銑三 著 『書物』

書籍に関する様々な側面を2-3頁で網羅的に記す。図書に対する愛が伝わり、とても面白いです。


le 12 samedi 土曜日
//満を持して//本日は施釉窯詰でしたので、明日から造形に入ります。約一か月、左手の養生と称して轆轤成形をとりやめ。トヨタが自動車作るな!!という位の衝撃でしたが、答えは自ずと現れるだろうとその時を待っていましたが、漸く新たな主軸となる形を創造できそうです。

とても嬉しく思うのです。今回もまた私の中の私が導いてくれました。陶芸家にとり手は飛車角のような存在ですが、それを制限されてなお、圧倒的な美を創出できるなんて奇跡というか神の恩寵というか、私はなんて幸せなんだろうと歓喜するばかりであります。

全く導かれているとしか思えません。海を越えて通用する美が私に湧いてくるなんて、何かしらの大きな存在とでも言いましょうか神様仏様御先祖様からの、もっと偉大な存在からの授かり物だと思う。陶芸をはじめたときから、不思議な事ばかり。どんな時も私の中の私が答えを授けてくれる。
結論は、私に起こりうる全ての事象は恩寵であって、例外なく創造的な意味が込められている。


le 11 vendredi 金曜日
//久しぶりの粘土//でも轆轤は用いず。手び練り作品で一窯埋めます。
今日発見したのですが、美しさにとって【厚み】は重要。お香立てを作ったのですが、どんなに作っても思ったイメージには到達しない。部分部分納得いっても全体で見ると美しくない。その理由が分かりました。それは作品に厚みがなく、美しい輪郭があったにせよ三次元的に見ると厚み無き故、不自然で見苦しい。私にとって、これに気付くための長い養生期間であったのかと思う。


le 10 jeudi 木曜日
//待合//まだ携帯電話の無かったころ、待ち合わせの重みは大きくて遅れてはならぬものだから、30分は早く着くようにするのが、一種の規範でもありました。これが男女のデートなら、待ち合わせの喫茶店を決めて、例えば彼女が30分早く到着するなら小説でも読んでいたのでしょうか?

場所を決めて人を待つ。こういう秘めた意味合いから待合は、時として男女の密会の場を提供する和式の言い様もありました。料亭のような座敷の沢山ある、表向きはそこで人を待つ。そういう待つ人のために場所を提供する業態。

人を待つことが、その含みを持たせることで一種の文化領域まで発展したかのように思えるのですが、今は携帯電話の出現で歩き疲れたから甘いものが食べたいから喫茶店に入るのであり、一人、きっと来るだろうその人に思いを寄せて窓の外を見たり本を取り出したりタバコに火を付けたり、含みあってこその優雅な振る舞いは消えたかのようです。




今日は常に南東から風が吹く。朝鮮半島の台風に向かって吸われる風なので、南東の風が一日中。面白いのはカラッとした北風の様な南風。名古屋に届く風は、渥美半島から蒲郡背後の山を越え、緩やかながらフェーン効果なのか湿気を取り去ってくれたと思うのです。

前は夜でも蝉の声でしたが、それもすっかり聞こえなくなり虫の声です。夏の気温が全体に4-5度底上げされた温暖化の世界ですが、それでも峠はあるもので、一つ一つ夏の盛りは終えていきます。だから涼しく感じるのでしょう。


le 9 mercredi 水曜日
//人を感激させる人//ギター一つで私の心はすっかり奪われました。


今日は朝早くから三重県に。台風の影響だろう、津も半分より南は伊勢湾ではなく、もっと南の外洋の気流の影響を受け入れるのか、墨で染めたほどの黒い雨雲が音は無いものの龍のごとく内陸へ内陸へ運ばれて行く様を見た。あれは名古屋では経験できない外洋の太平洋上の気配だ。
こういう雨雲の流れ一つ見るだけでも、今は過渡期だと思うし、何れ三重県の工房の窓から少し不安げに空の様子などを見る時、不安と重なる不思議な充実の感情を覚えると、度々思うことがある。

結局、美しいのだ。悲しくても美しい。寂しくても美しい。小さい頃は、美しさが寄り添ってくれることなんか全く分かりませんでしたが、今は色々なものに美しさが寄り添ってくれていると思っている。


le 8 mardi 火曜日
//美しい文章//この世界の美しいところを私なりに切り取って、言葉に替えて心の中に浮かび上がるような文字の芸術をしたためたい。強烈に思うのだ。

50を過ぎて一年と数か月。この前、大きな区切りを越えたと思ったのに、この調子でいくと50代もあっという間に終わりそうです。産まれてから暫くは何もできなかった。そして少しづつ出来る範囲も増えて、これからはまた少しづつ出来なくなったことに気が付くのだろう。だから今始めなくてはと思う。

一生懸命生きて懸命に表現して、命の限り挑戦して試みて。

お喋りをしながら毎日を過ごす、そういうあり方を終えた時、思い出す顔がたくさんあることに気が付きました。でも不思議なのが、私も彼もそれぞれに生きて、私の知らない人生の物語を重ねつづけているというのに、思い出す顔は昔のまま。だから、これは私の勝手な独り言みたいなものなのです。


le 7 lundi 月曜日
//届きました//昭和13年発行の『学生と読書』 この本には書き込みがありまして17.5.30とかの日付があります。この章を昭和17年5月30日に読了した印であります。戦時中の学生のメモ書きだと思われます。まだ開戦当初の勢いある頃で、このあと急速に国家の敗北を感じるとは夢にも思っていないと考えるのですが、それでも戦時中、読書一つとっても、この自由ある時間の希少性を現代人では想像もつかない感覚で味わっていたことでしょう。

私が戦中以前の古書に拘るのは、時代によっては明日か明後日に死ぬかもしれない、いやいや、この後本当に戦地で亡くなったかも知れない人の、戦争ではなっかったら存分に学業に専念しただろう、この悔しき思いの精神の汗のような印や汚れが、一人読む私にとって命の気配を感じるからです。以前読んだ、東海夜間中学の校内冊子の投稿文に、今もなお深い感銘を覚えるのは、これと同じ感覚が働くからでしょう。不幸な時代に生きた人たちですが、僅かに与えられた自由な発表の場の随筆は、命輝く内容です。

戦時においては若くても自身に与えられた自由な時間の、何れこの消滅を覚悟して挑む時の輝き。

これが分かると、平時に生きる私の命は、自由な時間が存分にあるから比例して輝くとは愚かな発想で、どんなに環境が良くても、魂の輝きはそれで得られるものではない。

収まりきれない情熱だとおもう。平時には、その頂きは高く、平和の恩恵を存分に活用してもなお足りない情熱の炎があって始めて我が魂も輝き始めるのだろう。だから並大抵の夢や希望で魂が開花するなんて、それはあり得ないと思う。常に大それたくらいの情熱を抱き挑まなければ、腐るほどある平和な時間に、我が内的な思いは届きはせぬと。
だから毎日は、時間が足りないと思うくらいの生き方でなければならない。もう少し寝ようとか明日にしようなどと考えるようでは、平時において、うだつが上がるとは努々思ってはならぬ。


le 6 dimanche 日曜日
//火の用心//本日は棒灸をしました。これを終え火鉢の灰の中で空気遮断消火をしたのです。ところが棒灸が倒れて床に転がる。そして再発火。あと5分、発見が遅れたら119番通報でした。私は日本の情緒が好きで火鉢だのお香だの灸と、そういう遊びをするのですが、これには完璧な火の始末が必要です。棒灸は当面は見合わせで、火消はもっと完璧になるよう何か考えます。

//素晴らしい発見//素敵なラジオ局を発見すると、とても気分が良いものです。今日は、この放送局を聴きながら施釉をしました。

本日は不始末がありましたが、大事には至らず。直ちにご先祖様と神様に御礼しました。

さて、ここ数日、毎日に歓喜する事がありませんでした。歓喜なんてたまにしかないものだと言われそうですが、私は単純なところがあって、朝早く起きた時に発見した自然の美しさとか、本の一節に感銘することがあれば、心の底から喜び歓喜したものでした。そういう長所が最近なかったことに気が付きました。

陶芸家として生きる以上、私は美の存在に気が付く人間であるべきだし、美を具現化しなければならない。


le 5 samedi 土曜日
//長いお休みでした//左手の養生は今後も続くものとして、でも休養は本日を最終日とします。その記念に、久しぶりのお灸を据えました。私のお灸は古典的な灸でして小さな火傷を伴う。これが効くのです。今のお灸は安全のあまり全く物足りない。

明日は朝から施釉します。


le 4 vendredi 金曜日
//pcもスマホもTVも無い時代//映像文化と言えば白黒映画で、映画館で見るニュース映画などもありました。ラジオはNHKの一波だけ。戦中以前の日本ですね。その頃の活字文化は今より桁違いの勢いがあったと感じるところがありまして、知識を得たいのなら【読む】これが最大の行為であった時代でありました。

この頃の書籍を買い揃えているのは以前の日記でも書きましたが、中でも気になる分野は【読書】についての書籍。読書する心構え・読書する環境・読書の喜びなどを評する本は、読むにつれ、当時の時代背景などをその所作を通じて体現できるところがとても素敵です。

君たちは今、読書階級であり・・・・・と書を読む者の特別感などを謳うところは、読んでいて私も悦に浸れます。

ということで、私は自分の興味に心酔することに価値を見出すのであって、流行とかに時間を費やすことなど小学生のころから全く興味がありませんでした。これは今でも確固として持ち合わせていまして、いずれ陶芸と(古書)読書が融合できればと、心の中で楽しく思い描いているところなど、相変わらず全く人との接点がありません。


le 3 jeudi 木曜日
//唐船ドーイ//

皆楽しそうで涙が出てきそうな、なんだか魂揺さぶられるものを感じます。
沖縄にこの旋律があるからこそ、あの凄惨な地上戦からも立ち上がれたのかなって思うところあります。

沖縄の御嶽など民俗信仰には神社の原型になる要素があると古いNHKのドキュメンタリーで見た記憶もあり、本土の精神文化の底流に確実に黒潮から受け継いだものがあると確信します。
それと思ったのは韓国の伝統芸能でも似たような太鼓の持ち方で舞うものがあり、これは勝手な想像ですが文化の流れの一つにフィリピン⇒台湾⇒沖縄⇒奄美⇒九州、この流れの分岐したものとして九州西岸・五島⇒済州島⇒朝鮮半島南部ってのを思うのです。対馬海流に乗ってですが。

今日は左手を休めた中での活動。明日も続きそうです。日にち薬ですが、寝て待つだけなら精神的に疲弊してしまいます。確かに思うところが出来なくなったという残念な気持ちもありましたが、左手を休めるからこそ見えるものや挑めるものもありますし、今はこれに取り組めと言うことでしょう。
復活したら、そんなことを忘れて没頭するのは分り切ったことなので、そうでもしないと休まないという神様からの思し召しだと思い、当分は使っていない箇所の頭を動かすことにします。


le 2 mercredi 水曜日
//気付いたこと二つ//日没が早くなっている。前は19:30過ぎても明るかったのに。暑い暑いと言っても、一つづつ暑い要素は峠を越えている。もう一つ、最近のやる気の無さは夏バテでもなんでもなく、左手が休息を望む心の声であったと理解することにしました。腱鞘炎気味で、暫くの間、別なる過ごし方に専念せよとのことです。

山と溜まった南信州新聞を読んで、あとは陶芸の技術書、それから明日は素焼が焼き上がるので施釉かな。轆轤作業だけは当分控える予定です。

それにしても今晩も涼しい風が吹いてくる。

//文学能力について//実のところ本を読むのは苦手です。読書量も全くお粗末な限りです。ここ最近の古書収集までは、ほぼ読まない人生でした。まず遅読であり、それと小説の類は架空の絵空事など付き合っていられないと、最初から排除。今になって戦前に発行された小説なども挑戦していますが、それが戦前であるから価値があるだけの事で、同じ内容で現代に出版されるとしたら、付き合う時間はないと排除しているはずです。

一方、自分で文章を書くのは大好きで、これこそ読書排除時代と並行して私の歩んだ歴史です。

さて、この数年の古書収集を説明すると、それは読書欲が高まったわけでもなく、今後の人生の会話相手として取り揃えたとでも言いましょう。会社を辞めて瀬戸時代も過ぎて毎日大勢の誰かと会うこともなく、ゆくゆくは三重県で過ごすことになるとしたら、私も50歳半ばです。人生を狂わすのは、心の隙間を埋めようとする行動なり選択が誤ったものであるとき。これは相当な確率で潜むものだと考えています。特に生活のスタイルも変わり、ともすれば隙間が大きくなる危険性もある。そんな恐怖を考えた時、私を健全な範囲で留まらせてくれるものは、興味任せで取り揃えた古書の背表紙だと思うのです。

その本に歴史的な価値や希少性を覚えると、私は読書し始めます。遺跡の発掘調査みたいな頭でしょうか? 古いから価値があり読むに値する。全く人とは違った基準ですが、私らしくて、結構気に入っています。これで会話が弾むとも思えませんが、これだからこそ発信できることは多くあると思っています。

何処に住もうが生活しようが、そこで感じる日々の美しさを発信できたらという気持は昔からあり、その一助に古い本の一節など役に立てば、とても私的だと思うのです。


le 1er mardi 火曜日
//雨乞い//何故か、名古屋だけが夕立も降らず大地はカラカラ。アメダスを見ると濃尾平野以北は毎日夕方から激しい雷雨で大地の熱がリセットされると思うと羨ましい限り。

//精神を集中すると//毎朝の座禅で精神を集中させると蝉の声しか聞こえないのは表面的で、いづれ様々な鳴き声が聞こえる。暑い暑いと思っても、時に熱風の中に冷気を感じることも良くある。作陶するうえで何かそのイマイチ乗り気でない、そんな日が続きますが、これはかなり路線の違う造形に気付けという前兆現象のような気がする。心静かに見つめれば、爆発的に夢中になれる造形に出会える気がする。それが何なのかまだ見えませんが、扉一枚向こうに控えていると、それは分かる。

//今月も終わればあっという間//月末は、可愛いムクちゃんの三回忌。毎日を、生きていることに感謝して一生懸命に懸命に真心こめて優しい気持ちで。




 
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