令和7年2月février.2025 le 28 vendredi 金曜日 //世界を選ぼう//怠け者の世界というのは、その世界の住人になるために怠けることばかり選び続けた結果に見る光景なのだろう。破滅型の人生の人は、やはり危ないことばかりを選んで刺激的な日々の先に破滅を味わうのだろう。腹の出ている人は、食べ過ぎの毎日の先にその姿があるのであって、全ては己が辿ってきた道。 そう考えると、人生は相当期間、ハンドルで言う「遊びの領域」があって、その間は事象として現れないけれども、遊び終えると右か左のどちらかに方向を変えている。これは安全装置であって、一回の万引きで人生は破綻しないけれど、許される領域を食い潰した上に万引きをしたなら、退学なり捕まったりする。言い換えれば何度でもやり直す機会はあるけれど、その期間をやり過ごしてしまったら悪人となる。努力も同じで、何度努力しても結果は出てこないけれど、その期間をこえて努力すれば、事象として結果は現れる。 良い意味で言うなら、失敗のその先に成功は用意されていて、悪い意味で言うなら反省しないその先に破綻が待っている。共通して言えるのは、その行動を続けると、ある一定のラインを越えたら何かしらの姿形となって現れる。注ぐエネルギーが一定量を越えないと具現化されないが、それは猶予とも言えるし、頑張りどころと解釈することも出来る。 le 27 jeudi 木曜日 //兄上の話を一つ//兄上には小学校の頃から仲の良い友人がいました。あれを親友と呼ぶのだと私にも分かるくらいの仲良しで、高校も大学も違うけど、その仲は社会人になってから数年は続きました。その縁が切れたと思われる内容を兄は語らずとも私には分かっていて、こんなことで縁が切れるなんて悲しいことだと思ったものです。 優秀な兄をも上回る頭の良さで某大企業に入ったものの激務のあまり、キトサンと呼ばれる健康物質で安易に金儲け出来ると考えた結果、どうやら兄上にも盛んに勧誘していた節がありました。兄上は、何処かの段階で断っているのですが、それ以来、友情は断絶。その友人が怪しい商品を勧めてくるから。再三断っても勧めてくるから。友人の姿が尋常ではないから。解雇されたから。逮捕されたから。何が真実でそうしたのかは定かではありませんが、絶交しています。 仲の良い時代はあったとしても、それだけの理由で友情を続けることはあり得ない。その為人が全てなのだが、それを語らずして関係を終えるのが大人の礼儀なのだろう。 le 26 mercredi 水曜日 //施釉⇒本焼き//新工房の大型窯を本日焼けば土曜日には窯出しできる!もう必至で施釉しました。ついて早々に、名古屋から運んだ施釉ブースなどを設置する作業があります。少しでも早く施釉したいのに、何たる手間であるかな!思いはしたものの、避けては通れません。それから10時間程施釉して22時に点火 19時前、ふと世の中の動向も知らなくてはとNHKラジオを聞く。19時からは全国ニュースですが、その前は地元のニュースの時間でした。 //何で心を満たすのか!?//だいぶと前からこの持論は何回も書かせてもらっています。この日は訳あって、この考えに思いを巡らせながら19時からの施釉作業を。 万人等しく、何で心を満たすのかという問題でもって、その人の行動が定まってくるものだと考えます。心の隙間を何で埋めるかによって、人生は昇華もするだろうし破滅にも至る。どちらに傾くにせよ、心を満たす欲求は行動力の源泉なのだ。私は陶芸に出会えて心底感謝しています。心を満たす行動が陶芸であるので、それが今の生業であるのだから、私は昇華に至る動力として、この欲求を活用しているのだと。これは一つの知恵だと思う。 le 25 mardi 火曜日 //豆腐大問題//母上は、豆腐はこの店、野菜はこの店と買物にはこだわりがあって、私はその足となっています。確かにその豆腐屋は素敵なお店で、昔の日記、ドライブばかりしていた頃の日記ですが、散財が過ぎて今週は自宅湯治と物忌をしていた頃。ちょっとした気分転換に、この豆腐屋の出すお弁当を宿の食事に見立てたり。そのお店が来月に閉店だと。悲しくて悲しくて。最近は新工房でも食材に利用もしていたので、ああ残念。ここの油揚げを火鉢で焙って、焼き肉のタレで食べるのが、ちょっとした楽しみだったのに!! 当り前にして在るものが、あり続けるとは限らない。いかんいかん。私は変化を選ぶ生き方を宣言したはず。変わって当然。変わるから新しい喜びがあるわけで。 le 24 lundi 月曜日 //日帰り//昨日詰め込んだ釉薬を新工房迄。荷下ろしして、素焼の窯出しをして温泉に浸かって名古屋へ。そろそろ施釉本焼きに入りますが、釉薬が名古屋だと話にならないので作業無くても運搬のみの往復なのでした。どうでしょう。窯大が本当に大きいので、腹を決めて同じ施釉ばかりで作業を単純化しないと一日では終りそうもない。 新工房には電動ろくろが二台。実際使っているのは一台なので、残る一台を名古屋でも良いのですが、まあ名古屋は手回し轆轤の細工物に特化しようと思います。その新工房での電動ろくろなのですが、流石に文明の利器。大型の作品でもスラスラと作れます。これが楽しいのですが、もう少しやりたいと思うところで一旦名古屋に戻る。 今年の冬は何度も雪が舞い、それは小学生の頃の名古屋の冬。寒波も今日で最後と言われますが、この懐かしい冬は、もう二度と訪れないのかもしれないと、名残惜しいし温暖化を思ってしまいます。鈴鹿山系の雪山は滋賀の比良山系のようで、1000m前後の山頂まで樹林帯の、雪山としては白々しくない濃淡。これも久しぶりに見る光景でした。特に本日は松阪の背後にある山、嬉野あたりの山も雪を頂いていました。めったに見られない光景です。南岸低気圧の雪ではなく、日本海の雪雲の流下で降る雪は、上質な冬の姿。 le 23 dimanche 日曜日 //どえらい量//釉薬大移動の二回目の準備をしましたが、積めるだけ積んだのに、まだ山のように残っている。これを全て移動させたら、次は釉薬原料の移動で、また同じような展開。ただ名古屋にあった大量の釉薬バケツが減っていくのを見ると、昔は何も考えず名古屋人でしたが、今後は片方の足が三重県民、残る一方が名古屋人。四年前、人生の決断をしましたが、これが生活の場にも姿形として変化を呼び起こしています。 贅沢と言えば贅沢ですが、今後、想定されるのは、こちらで引き続き制作したいと思っても、一旦中断して、名古屋に行ったり三重に行ったり。一か所で腰を据えて制作する環境は手放したわけですが、一応どちらも制作はできる環境なので、文句言っては罰が当たります。 le 22 samedi 土曜日 //朝から//年パス効果を最大限に!!朝からお湯に浸かりに行きました。この温泉は65歳以上だと3万円で年間パスが購入できます。津市の補助があるのでしょうか??総じてお安い。賑わいから見て、どうやら地域の人の相当数が家でのお風呂は入っていないような気もするのです。 この温泉は小高い丘にあって、周辺には図書館とか立派な公園が整備されている。この公園が貴重であって、田舎の公園というのは、ゲートボールが出来れば良いという感覚で、公園とは名ばかり、緑がありません。田舎の人に植樹して公園を整備させるという感覚は、海の中にプールを作る感じで無意味に思うのでしょう。 一方、名古屋の自宅は近くに整備された公園があって一周一キロの遊歩道も整備されています。エレガントウォーキングやジョギングをする人、池の鳥を観察したり、車の来ない環境でピクニックのように時を過ごす家族連れ。新工房の周辺で安心して歩いたり、途中に座れるベンチとか、そういう環境は無いものかと探していたのですが、1kmの距離はありませんが二周歩けば同じになりそうな、小さめの公園があって、これからは朝のお風呂に入る前に、歩いたり健康運動をやってみようと思います。 le 21 vendredi 金曜日 //73回目から//工房から至近の距離にある温泉の年間パスを買いました。73回目からお得になります。陶芸の道に入ってから温泉は少し縁遠くなってきたのですが、これで温泉三昧の環境は手に入れました。夏場は二回三回、シャワー感覚で入りに行っても良さそうです。 le 20 jeudi 木曜日 //大気//新工房への道中、運転していて思ったことがあります。もし、月みたいに大気が無ければ青空は無くて、昼間ではあるけれど、私の目の前には大宇宙の星々が地表面すれすれから全空に亘って見えるのだと。 大気の層は、蛍光灯のガスみたいなもので、日中、太陽が当たると光線が八方に乱反射するから、全体が明るく見えるのだろう。 それで昨日の続きですが、星空は夜だけのものというのは地球人の思い込みで、実際は昼間でも燦燦と存在しているのだが、蛍光灯のガス効果で見えないだけ。 もし、天文学的な距離から届く光の波長(星の輝き)に伴って諸々の非可視光線の電波が届くとして、その中に人類の精神に働きかける何かしらの波長があるとするなら、とても神秘的だと思うのです。結論は同じで、昨日に日記の最後の三行。 le 19 mercredi 水曜日 //釉薬大移動//の第一回目。4-5回は続きそう。 //プールの中の砂粒//前の日記で私と天の川の間に遮るものはないと書きました。あんなに遠くにあって、この間に遮るものがない不思議を考えたのですが、宇宙空間の星ってのは、プールに砂粒をバラまいた程度であって、空間に対してあまりに小さいから、天文学的な距離であっても直接視認できる存在なんだと。つまり、星が遮って、向こうが見えない立地関係は奇跡でも起こらない限り、なかなか発生はしないのだと。 宇宙というのはまっ黒な空間がほぼ100%に迫る割合であって、星はプールの中の砂。ただし輝いているから存在が分かるのだ。これはなかなか含みのある考えで、圧倒的に漆黒であっても、砂粒の存在であっても輝くなら存在が認められる。 光は可視光線で波長の一部。人間が輝くなんて禿頭にでもならないと無理ですが、例えば可視光以外の波長に、人の想念が含まれていたと考えるなら、内心の強い感覚はある種の電波帯で外に放出されていたりして。願いは叶うとは、まんざら嘘ではなくて、願うという想念がある種の波長で体外に放出されて、何かしらに作用することはあると思う。人の感覚に、光は別物と考える向きがありますが、たまたま視認できる可視光の領域の波長であって、光に隣接する波長もおびただしく飛んでいるわけである。考えてみれば、光だけが特別に遠い宇宙の向こうからやって来るわけではなくて、見えない何かも宇宙の向こうから降り注いでいる。 ヨガの達人や哲学者や宗教家が、古今東西の別なく、宇宙の真理とか、宇宙から云々とか言うのは、口裏合わせをしているわけでもなく、呼吸を深く精神を統一し思索に耽ったり瞑想したりすると、共通して宇宙からやって来るある種の電波帯に深い意味を見出すのだろう。 le 18 mardi 火曜日 //会いに行く//去年の夏、出店先で一人の大学生が結晶釉で行き詰っていると私の目の前に現れたことがあります。その彼が卒展です。一時間ほどじっくりお話ししました。彼は22歳。×2をしたところで私より10歳も若い。圧倒的な若さで、素晴しい釉薬表現を成し遂げています。 粘土には全く触れない一日でしたが、、充実し刺激もいただけました。陶芸は年齢なんて関係ない。若くても尊敬出来る人はたくさんいます。技術がモノを言う世界で、各自、技術の範囲内でしか表現できない。 le 17 lundi 月曜日 //時間が無い//一週間が14日であって名古屋で7日、三重で7日、こう振り分けれたら問題ないのですが、不足感は二拠点にしてから増大しています。例えば名古屋に4日居たとすると、この間に家の買い物、場合によっては病院の付き添い、名古屋工房での作業、今の時期は修了展も見に行きたいし。それで三重工房に三日居たとして、施釉が入ると、窯も大きいので、その週に満足いく作陶は出来そうにない。 //気が付きませんでした//名古屋に居ると1km先を見ることが出来ない。地形の起伏や家やビルが多くて。ところが高台に行くと御在所山系の藤原岳が雪山として見えたりもする。30km先の姿ですが滋賀県や京都は見えない。 夕食後、公園を散歩しました。金星なのか水星なのか輝いて見えます。田舎に行くと天の川も見れます。私たちが所属する銀河の中心。とんでもないことに気が付きました。遠い遠い星の輝きが見れるのは、私とその星の間に遮るものが全くないのです。極端な話で言うと、懐中電灯を点滅させたり、糸電話の糸をピンと張っても、この間に遮るものは無いので通信は可能です。月なら、太陽なら何とかイメージできたとして、天の川も、私と天の川の間に遮るものが無い。世の中の真理として、1km先、30kmより向こうが見えない我々の視界が極めて異常なのだろう。本来は、どんなに遠くても遮るものが無くて、その存在を直接視認できる関係なのだ。 人間の存在をチッポケなものとか、あの人は心が狭いとか、いろいろと表現されますが、実際はそうなのでしょう。 電灯もない頃、、夜空はおびただしい星であった。昔の人は夜空を意味を感じ乍ら見ていたことは確かでしょう。あの星とかこの星とか、意味を感じながら眺める。その距離感は、現代人が地表面で右往左往している視野の狭さと比べると余りに対極である。 人間に思いを馳せる能力があるとしたなら、昔の人は天の川に語り掛けていたのだから、現代人の悩みとか視野とか砂粒みたいなものと鼻で笑われると思ったのです。 le 16 dimanche 日曜日 //曜日の感覚が無さ過ぎる//本日は日曜日であったらしい。何かに属する生き方を辞めたら、こうも曜日の感覚が無くなるものかと愕然とします。会社勤めの人は定年後に、この違和感に気づくでしょうね。 先日見た修了展は本日が最終日。明日は撤収で、それから怒涛の片付けで修了式。 もし講演をいただく機会があるとするなら、陶芸家を志すなら、制作できる環境の確保と誰にも負けない情熱の保持。この二つがあってこその陶芸家だと言いたい。二つのうちどちらが欠けても陶芸家としては立脚できない。前者は確保するために多大な尽力は必要だけれど、それは生みの苦しみであって一過性。後者は費用は掛かりませんが、不滅の法灯のごとく情熱が途絶えた時点で二軍落ち。この日記も連日陶芸のことばかり書いていますが、情熱があると何か書きたくなるものです。陶芸のことは触れたくないと思った時点で二軍落ち。 //驚かない//もはやトランプさんが何を言おうが驚かなくなりました。アメリカでもロシアでも中国でもない、帝国主義に警戒する自由と民主主義の国が自然と連携したりして。アメリカは国土が広大だから経済の中心地だから偉大なわけではなく、そのアメリカが自由と民主主義を捨て去りロシア帝国主義に与する行動を取ったら、彼を指導者と信じてきた多くの国々も目覚める機会になるのかもしれません。アメリカは失うものより得るものの方が多いと信じているのでしょう。 le 15 samedi 土曜日 //修了展に行ってきた//二年前は私が主役でした、その二年後の皆さんの修了展。実に素晴らしかったです。 この東海地方でも、この春卒業する陶芸を学んだ人は50人位はいるでしょう。そうなんです!!東海地方だけでも毎年50人は陶芸家として巣立つのです。ですが陶芸家がねずみ講のように増え続けるわけではない理由に、毎年、情熱の衰えた下位の人から消滅しているのも事実だと思うのです。もし私に、陶芸の情熱が衰えたら、それが顕著で下位何人かに属するようなら、その年の消滅名簿に名前が載る。一方では新規に増えるけど、一方では減っている仕組みも存在するのだ。 私が最も心するのは、いつまでも陶芸の喜びを感じていること。陶芸への情熱が衰えることなく夢中が継続すること。これが持続さえすれば技量は後からついてきます。 //子//本日、鶴見祐輔氏の昭和七年の小説を買いました。651頁の分厚い本ですが、既に1/10は読みました。当時の上流の世相が活き活きと描写されて面白いのです。もし、現在、スマホもパソコンもテレビもない時代だったら、人には大いに余暇時間があって、相当な割合が読書に向けられるでしょう。戦前の国民は、読書を娯楽として読んでいました。今、娯楽として読書する人はどの程度いるでしょう?? 分厚い小説を手にすると、懐古趣味的な時間の使い方をしているなと思います。 電灯の付いた部屋に皆が集まり、、そこには火鉢とラジオがあって、銘々好きな向きに座って、読書しているのが、食後の余暇の姿なのかと思うと、今には無い面白い光景だと思いませんか?? le 14 vendredi 金曜日 //その時はその時で//私の特技の一つに、よほどの大災害でない限り、どんな天気でも美しく感じたりすることがあります。美しいものは、毎日いたるところに存在しています。こういう性格なので、自分の人生を振り返っても、退屈な時代は無く、時代時代で楽しんでいました。ところが今思うと、ある種の空虚を覚えるのです。それは、時代時代に上手く適応して楽しみを見つけていたにすぎず、その時代を毎日を夢中で生きていたかというと、全く違うのです。程度の低い満足と書けば語弊がありますが、それら満足に魂の喜びは並走していなかったように思えるのです。(ただし、海外一人旅・斜面集落探訪・作陶時間は除く) 満足に喜びに楽しさに感動に、魂は並走しているか!!?? 今、日常が喜びであって魂が伴っています。心するは、もっと高次元の喜びに展開することであって、今に満足して、これを持続させたいと守りの姿勢に入ったら、あれだけ続けてきた変化を恐れていた過去の自分と同じになってしまいます。幸せであっても、これを守ろうとした時から崩壊が始まるのかもしれません。20代の陶芸家ではないのだから、先に進めるのなら躊躇している時間はありません。 le 13 jeudi 木曜日 //次からは//近くの温泉に行きました。今どき550円というのも嬉しいのですが、年間パスポートが40000円。元は取れる計算になるので次回は年間パスを買うとします。夏場なんか、一日2回とか行けばよい訳だし。さて、ここの温泉施設は図書館も併設で何かと便利。今後通い詰めるもう一つの理由に、三重の人になる準備というのがあります。ロビーには各種チラシ、公報津、市議会だよりとか、今は名古屋に軸足を置いていますが、いづれ三重に軸足を置き名古屋へ、という生活も十分想定出来ますので、この新しい土地を知って、出来ることなら陶芸やその他感心事を通して新しい人間関係も作っていこうと考えています。 この新しい人間関係ですが、9モソで見つけることは致しません。この土地で広く豊かに生きることが目的であって、狭い性の領域で気の合う人を見付ける9モソの行為は全く背反するからです。 le 12 mercredi 水曜日 //毎週の改善//今年から二拠点での制作ですが、新工房での生活も毎週改善を重ねて居心地が向上しています。居抜きで購入した物件ではないので、がらんとした空間に一つづつ揃えていく。まだまだ改善は続けなければならないのですが、今回はどんな向上になるのかと期待して伺う心地は楽しいものです。今回は聴覚の改善。まだwifiが整備していないので、オフラインで楽しめる環境になったのは、とても助かります。 今日は午前中は空が青くて、お天気が下り坂というのが信じられなかったのですが、夜には雨音です。緯度で言ったら浜松と同じで、海にも近い。すくすくと蜜柑が育つ、温暖な気候。名古屋とは違う、南の風土を少し実感する環境です。 le 11 mardi 火曜日 //ありがとう//兄夫婦が牡蠣を手土産に我が家へ。小さくてなんでも再生できるオーディオ機器をいただきました。ありがとうございます。これで新工房の聴覚の飢えも解消できそうです。これと似たような機器を前々から欲しいと思っていましたので、本当に嬉しいです。 //素晴しい散歩//冷たい風ですが二月の青空。つま先ウォーキング、3km歩きました。鳥のようには飛べないけれど、心弾む午後の一時、幸せが溢れる感覚。 昨日の日記の【人生立ち位置仕組み論】 改めて、平素の心の置き所が、その人の人生を形作るのだなと思います。心するのは、邪心を排して、志は高く壮大で、いつも魂を輝かすように喜びをもって陶芸に取り組む。私だからこそ出来る美の表現を広く世界にお届けするよう、そういう心持を常日頃持っていれば、そういう存在として、この世の仕組みに組み込まれるだろうと考えます。よって大調和の一部になれるような存在になるため、煌々と輝き、揺らぎ無い存在として認知されるよう、精錬し力量を高めねばと思います。陶芸で魂を謳歌する!深い喜びをもって毎日を重ねましょう。 le 10 lundi 月曜日 //近所のおばあさん//母上は大のお友達、そういう近所のおばあさん。母上外出中に家の電話がおかしくなったから調べて欲しいと我が家迄。それで私が伺い解決する。不思議です。人助けなのに私の方がとても幸せな気持ちになる。 この長い日記は私の哲学や宗教観の土壌であって、書きながら成長していきました。その中で一つの確信がありまして、それは日々、人助けをする人、困っている人に祈りを捧げる人は、その様な役割故、この反対側に行くことはない。つまり助ける人・祈る人に困窮はやって来ないと。これこそが生きる上での安全装置であると。 この世の中は、仕組みであり、仕組みの試行錯誤の結果、調和の域を形成すると思う。日々、祈り助ける人は、日々の行い故、仕組みに組み込まれ、続けることにより、それは調和の部品となり、欠かせない存在になる。こういう流れは環境に対応する生物と同様、起きて当然なのだ。 調和の域まで持っていけば、それは運命として感じるものなのだろう。心するのは、悪業を重ねる人も、それを続ければ、そういう存在としての居場所を、負の調和として席を用意される。何事も、繰り返すことにより、居場所は用意されるものであり、それが人生の質になると思う。 いつもにこにこする人、いつも怒っている人は、いつもそうであったから、今もそうなのだ。 le 9 dimanche 日曜日 //衝撃の瞬間//今朝、夢ノートを書こうと思いました。確かに見ていて覚えている。でも、もう少し寝ようと、一旦寝て、再度起きる。この時も夢の記憶はありました。さて、ノートに記憶しようとライトをつけたとたん、夢の記憶がすべて消えてしまいました。52年間生きていて、夢とは気が付いた時に忘れているものだと、それ以外の忘却の記憶は無いのですが、今朝は初めて夢が瞬時に消え去る経験を致しました。ノートには、これを書かねばなりません。 当面の課題は夢を忘れず筆記することになりました。毎晩見ているのは確かなので、自分で書いたのに全く予期できない面白い読み物になるのかも。 le 8 samedi 土曜日 //15-20年前の日記にも//載せていると思いますが、こういうラテン系のおバカお色気番組って好きです。 今朝方も不思議な夢を見ました。仙人みたいな人と二人で、何処かの谷あいで粘土掘り。その谷あいの光景は昔も見ました。仙人は言う「お前は、他の人と違って陶芸に命を懸けているなと」 それから仙人は粘土質ではあるものの石ころも多い低級な粘土の塊を取り出して、なんと放尿をする。私は、ああ何てことをするのだろうと思う反面、この粘土も持ち帰らなくては。。。。という内容。 夢を毎晩見ていると確信してから、覚えるように意識をしたら、日中の生活では想像もつかない内容を夢見ます。ってことなので、今晩から夢ノートを枕元に置きます。よほど意識しないと忘れるので備忘録になります。 因みに、その前の晩は、前職の社員旅行の写真をこれでもかと見る夢でした。通常夢の中では私は見ないのに、写真の中にはハッキリと私の顔があるのです。何枚も何枚も私の昔の写真を見る。いい加減、前職の夢とも卒業しなくてはと思っていましたが、この夢が卒業式であるような気もします。 ということで、夢ノートを用意しましたので、夢の内容はよほどのことが無い限り、こちらには載せないかも。 le 7 vendredi 金曜日 //掃除も大変//新工房から名古屋工房に戻る時、この間の掃除をします。ところが2時間近く専念しなければ綺麗になりません。これを後回しにすると、次回到着した時に2時間の掃除か先に来るので、後回しの意味がありません。掃除はしないと決め込む以外に、掃除の呪縛からは逃れられません。 床に散乱した粘土をゴミとして扱えば掃除は30分ほどで終わりますが、私は名古屋同様、この粘土も回収して再利用。ですがゴミも混在しており、篩にかけて分別。これに時間が必要なのです。道具にこびりついた粘土も、雑巾でふき取った粘土も回収します。塵も積もればですが、これが結構な量になって再生粘土として復活するのです。 le 6 jeudi 木曜日 //喜び//新工房も、そろそろ別名考えないと。ここに滞在すると素晴しい喜びがあるのです。それは地表面に近い所から昇る朝日を拝めること。名古屋に居ては太陽は日の出からかなり経って、ようやく直で拝めるのですが、ここでは日の出の時刻とほぼ同じくして合掌できる。そうなんです。日の出を見ると、何て神々しいのかと。都会に居てはこの恵は素通りです。 新工房は自治体で言うと津市なんですが、津工房は言いにくい。津市一志町から一志工房にしても同様。旧国名で伊勢工房にすると伊勢市の印象があるので宜しくない。日の出が美しいから日の出工房。。何処かにありそうですね。 le 5 mercredi 水曜日 //30分の違いは一時間超//本日は寒波到来で出発を30分遅らせました。ところが通勤渋滞に巻き込まれ、30分遅く出発した答えが1時間超遅れての到着。 途中の道の駅が秀逸で7時から開店しています。ここでちょっとした干物とかを買って工房の火鉢で焙るのです。 今年から二拠点での制作。どんなに頑張っても、一方に7日滞在することはありません。3日とか4日とか。だから一週間が本当にドラマチックで、密度が濃くなりましたが、その濃さは二拠点の利点を最大限現わしているかと言えば、まだまだなので、更なる充実の余地はあります。 le 4 mardi 火曜日 //寒くなってきた//ホントに寒くなるの??と思っていましたが、予報通り寒くなってきました。でも、昔の名古屋は、40年前なんだけど何に一二度は真冬日もありました。最高気温が氷点下!!今では信じられません。雪が舞うのは珍しくなく、雪景色も年に何回かは楽しめました。だから10年に一度の寒波と言われても、温暖化極まった冬の平均から導き出しているものなので、結局はその程度の寒さで収まると思う。 物価の高騰は陶芸でも顕著で、粘土に釉薬の原材料、窯などの大型資材に電気ガス代。全てが例外なく高騰しています。この経費を床下と考えるなら、床はどんどん上昇して天井が近づいてきました。売値を天井とするなら、二年前は2500円を一つの基準にしていましたが、今は3500円を念頭に、これで喜んで買ってくれる品質を自分に課しています。 心するのは3500円は一過性であって、私は5000円とか6500円とか、常に高価格でも納得される作品作りを目指さなくてはなりません。全く、安住の価格帯ってものがありません。日々精進になります。 物価高の中で、激安で提供するスタイルもあります。注目度が半端ありません。ここに商機を見出すのでしょうが、私は陶芸で魂を謳歌すると決めました。廉価作家で生きるのは私の魂に失礼千万な行為になると考えるのです。私は、とても尊い存在で、価値ある作品を、美を世の中に産み出すのであって、美と価値があってこその作家だと、これは信念になります。 つまり【信念の具現化】 これが私の進む道になります。アッと驚く美しさ。美しさに凄味が感じられる造形。他を探しても見当たらない。私が作らなくては、この手の美は入手も出来なければ世に増えることもない。そういう域。 よって美しく凄味のある作品を作っていくのだが、これを私自身で解決しようとすると、早々頓挫する。出来得る範囲が知れているからだ。これを脱却するためには、二つの要因があって、私の美を熱烈に賞賛してくれる一人でも多くの人との出会いと、制作に臨む私の精神の更なる向上、継続される夢中。ある種の神がかり的な境地になってこそ凄味を引き出せると思っている。 le 3 lundi 月曜日 //本の内容//びっくりな夢を見ていました。本を読んでいて、読み終わる。夢の中で、これを書き起こしたら一冊の本になるじゃない!!と。それから暫く覚えていたのですが、気が付いた時には内容をすっかり忘れている。もったいないことをしました。 //三つの時代//2001年の10月から書いている、このHP日記。そもそもWEB上に日記を書きたくて始めたのですが、これを現在まで欠かさず続けています。全く内密ではない、しかし世に知られたものでもない、このあたりのバランスがとても好きで膨大な文字を書き綴っているわけです。四半世紀に及ぶ日記になってしまいましたが、振り返ると面白く、大きく分けると三つに分けることができます。【陶芸を始めるまで】【陶芸を始めてから前職を辞するまで】【瀬戸時代から現在に至るまで】 【陶芸を始めるまで2001年10月-2011年2月】 全く空虚な生活を送っていました。書き綴る内容も薄っぺらく。斜面集落と地方都市で過ごす週末の、この分野のみ読むに値する。それ以外は恥ずかしい内容ですが、これも私の歴史です。 【陶芸を始めてから前職を辞するまで2011年2月-2021年3月】 陶芸のことばかり。職場の人間関係とか。 【瀬戸時代から現在に至るまで2021年4月~】 陶芸のことばかり。 //ボロボロの新約聖書//まるで敬虔なキリスト教徒のような、読みつぶした聖書が私にあります。今から思えば笑い話のようですが、勤めていた頃、私は何かに怯えていました。不正が露見するとかそういう意味ではなく、私の課の安全、業務の進行の無事であることに、結局は祈ることで、さらに聖書に救いの文言を探す事が朝の地下鉄の勤めでした。 怯えと信仰の日々でもありましたが、生き方としては貧弱そのもの。日々の前提が怯えだからです。 今、祈るとしたら自分と近親者が対象になりました。私は幸せです。人の心に心配の種を見出し神に祈ることが無くなり、自分の進む道を丁寧に観察することが出来るのです。漸く私自身を大切に扱うことが出来る幸せ。思えば、前職は自分のことは全く棚上げにしていました。 これからは、陶芸で魂を謳歌する!!これから逸脱しないように、この道を進むことができるように広く祈って日々を重ねて参ります。 le 2 dimanche 日曜日 //節分//成海神社に行きましてお祓いを。実は新工房で手を酷使したのか赤切れになりまして、昨日今日と作陶は見合わせ。流石に明日からは復活しないと。 一旦家に戻ってから日進の農協に。もみ殻を求めたのですが、以前はあったのに売っていない。燻炭だと素焼に炭素が付いて釉薬の付着を邪魔するだろうから、初回の移動は一個づつ新聞紙に丸めようかな。 le 1er samedi 土曜日 //ありがとう一号窯// とうとう名古屋一号窯が素焼専用になりました。現在、三台体制ですが本焼きは新工房で行うものとして、長年使用してきた名古屋一号窯を素焼専用に。名古屋での制作は素焼までとし、これを新工房へ移動させ施釉⇒本焼き。電熱線がかなり劣化してきたので、素焼専用は長持ちさせるのに丁度良い転換になりました。 問題は、これを割れずに移動させる工夫。おがくずの中に入れるか、もみ殻か、スポンジで囲むか。 |
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