令和6年1月janvier.2024

le 31 mercredi 水曜日
//一月にすべきこと//31日の午前中に終わらせる。遅々として進まずとヤキモキしたこともありましたが動く時は動くものですね。今月は最後の三日間に一気に片づけました。

明日は一日造形日といたします。とても楽しみ。


le 30 mardi 火曜日
//帰りに五色園//天白川の水源が日進にあるとは地図の上では知っていたものの、実際に伺ってみると感慨深いものがあります。緑区も戦前までは、いやいや昭和35年くらいまでは、このような光景が広がっていたのだろうと低い山に水の湧く不思議な光景に、これが隣町なのかと思うと実に不思議。

帰りと言うのは多治見から。


le 29 lundi 月曜日
//待った甲斐がありました//2時に目が覚め5時まで眠れない。目が覚めた理由は、買うべき窯のサイズのお告げがあったからです。明日は多治見に行こうかと思います。ここ数日、モヤモヤしていたのですが、霧が晴れたような朝となりました。それにしても不思議な夢である。2-5時の間も半分寝ていたのか、これまた変な夢である。感覚としては何年も前に氷上姉上神社元宮に参拝した時の目の前が蜃気楼のような揺れるゼリーの中に居るような感覚と同じ。


le 28 dimanche 日曜日
//夢は語る//最近睡眠時間を長くしていますが、ここ数日顕著なのが前職で楽しく仕事をしている夢。これを分析すると、私は誰かと話して笑って仕事をしたいという欲求が心のどこかにあるのだろう。勿論、陶芸から去るつもりなんてありません。ただ、毎日、一人で過ごしていると、お喋り欲求というものが常に沸々と湧き上がる。

一月も残りわずか。やり残しが無いように明日からの三日間も果敢に。


le 27 samedi 土曜日
//昭和19年//の新聞を読んでいます。勝ち進んでいるとの報道にも無理が生じる戦争末期。威勢の良い内容の隅に劣勢が伺えます。それと国民に節約・貯金の増額・諸々の増産・勤労時間のさらなる捻出、これが残りを埋めます。

節約の内容が今でも参考になります。三重県生活が始まったら、当時のレシピを再現するのも楽しそう。
●お米を炒る ●重めの三倍の湯に炒ったお米を入れる ●布団などで一晩保温すると驚くほど雑賀氏ている ●朝、もう一度強火にかけて残った水分を飛ばす。

これが少ない配給に満腹感を得る調理の工夫。


le 26 vendredi 金曜日
//ドイツ民主共和国//美しい旋律の国歌。今は無き東ドイツのことね。

ホロコーストの罪の意識もあって、ユダヤ人が何度も登場しています。許しを請う意味もあるのでしょう。

今日もスラスラ捗りましたが夜になると何か違いを感じます。今週行く窯屋さんは寒波のため延期したから消化不良なのでしょう。
去年の今頃はまさに最後の追い込み。あれから一年。来月から修了展行脚になります。


le 25 jeudi 木曜日
//創造は面白い//スラスラ作れるか否かは、表の優先順位ではなく心の中に制作する上で閊えの有無。本日は閊えが無かったのでスラスラ作れました。

//心身の一致//瞑想している時にも思うのですが、心身の一致が全く自分の事なのに簡単ではない。他人を遠隔操作するのならまだしも、自分の事ですよ!!脳内をこのようにしようと思っても、その通りにならない。まだまだ修行が必要とのことか。


le 24 mercredi 水曜日
//深い昼寝//外に作品を乾かすことも出来なかったので、本日の仕事は午前中のみ。午後から何か為になる行動でもと思ったのですが、余りに寒いし布団に入るのが経済的と。これで二時間深い昼寝をしてしまった。

ふと思ったのですが、この凄い理想は実現するのか??
みな好きな事や得意な事、夢中になることを仕事とする。
収入は貯えない。使い切ることを社会のルールとする。これを現実化すると、お金は使い切れなくなると思う。もちろん社会に不景気も来ないような。

人が貯える最大の理由は働けなくなったことの備蓄。
ところが貯えてはならない。

とは言いつつも事故に遭う人も老人も出現する。皆が収入を使い切ることを社会の規範としたら、彼らの生活や医療の援助は、使うに困る毎月の収入を彼らに向けるだけ。例えば、医者はそんなに高額な収入も使うに困ると考えれば、診療行為も時に喜んで無償で行うかもしれない。

それと、もう一つのルールは休養を上回る勤労。老人であっても出来うる範囲で休養を上回る勤労。ただし仕事は各人が夢中になれるもの。

勤労は喜びを土台とし、助け合いは国家の規範とし、これによって個人の不安を払拭する。そして十分な休養を確保したにせよ、最大限49%の範囲とし51%は喜びある労働。それと究極は、上記仕組みに貨幣を用いず、全く皆が皆得意分野の労働とその成果の交換でもって社会を回すこと。


le 23 mardi 火曜日
//ムムム//頭に描いた造形が出来なかった。 明日は轆轤を使わない造形の日としまして手首を休めようと思います。

最近と言っても2-3日前からですが、早く寝ることに心掛けています。十分な睡眠をとると夢を見るのですが、今朝方も前職の夢。こういう場合に瀬戸時代の夢が全く無いのは不思議です。まるで、あの決断をしていなかったら、今頃、こんな感じなのかしら?という夢です。

人生の全てに良き意味があると思っているので、前職の夢も良きに解釈する部分があるのでしょう。因みに内容はまだ若き頃に強いられた不合理な労働管理で、それを今もなお強いられるものの時の常務は、全く我関せずな態度に憤っている夢。これを今見る意味が分かりませんが、実体験に基づいた内容ではある。
それと印象に残るのが、全く外回りをしない営業が、営業会議において臨席の社長に自らの負い目から話題をそらそうと私の課員の文句を述べたりする夢。

そういう話題になったので書きますが、私の経験上、卑怯な男ってのは現実に存在する。私生活の鬱憤を、仕事上の不甲斐なさを、責任の回避を狙って、そんな程度の理由で立場の弱い人間に当たり散らしたり、時に捏造までして矛先を替えようと試みたり。でも、それは一時成功するものの長続きはしない。こういうことに私が勝利した訳ではなく、心の弱さや放蕩が当人を自滅に追いやり、目の前から消えていった。

男だから、大人だから、先輩だから、上司だから、それでもって尊敬に値することはない。長幼の序に関係なく、人間は中身なのだ。


le 22 lundi 月曜日
//実験こそ我が作風//大きな電気窯を買うと実験の回数が減る。かといって小型実験炉は、実験だけに没頭しそうで怖い。私の作風の最大の強みは、他と違って作風が定まっていないところ。常に新しき表現を模索し続け、おそらく、この追求を辞める日は来ないと思う。

それと本日、また新しい形が降ってきました。どうしてこんな発想に至るのか、全く天からの思し召しと考えなければ説明が付きません。有難いと思います。世の中には、心を刻んで意匠を生み出す人もいると思いますが、私はそうではない。だから、これはアナタが考えたのですか?と問われれば天啓ですと素直に語らなければなりません。


le 21 dimanche 日曜日
//窯の買い方、組み合わせ//名古屋工房と同型の窯が案外安く買えるなら、いやいや修理費が高いので、その差が小さいのなら新品を買う理由はつく。そうなると新工房の窯の購入を慌てる必要もなくなる。この可能性が無くはないので、益々頭が混乱する。

ただ新工房で大胆に創造するのが第一の目標であるから、お得情報があったとしても躊躇することになる。来週、多治見に行こうと思います。


le 20 samedi 土曜日
//中毒について//昨日今日と三重テレビアプリの至極単純なスマホゲームにはまってしまいました。この中毒性は恐ろしい。次はもっと良い点取れないかな?と再チャレンジの繰り返し。
●没頭する時間が長いことに気が付く
●この間生産的な努力をする者と比較をすると、空恐ろしい格差
●どんなに良い点数をとっても実生活は変わらない。未来は劣化する
●視力が悪くなる
●脳が休めない
●次なる作家活動において最高のパフォーマンスができない

よって、本日、この時点をもって二度とやらないこととします。


le 19 vendredi 金曜日
//遅いスタート//午前中は郵便局やエントリー作業。昼からはケアマネージャーさんとの応対。本日の制作は遅い時間から始めましたが、職住一体の有難味、少し延長するだけで案外作業時間を確保できる。

作りたいことが山ほどあり、それがちっとも掃けないので、変な意味のモヤモヤは感じるところ。


le 18 jeudi 木曜日
//春の雨//冬が崩れ始めてきた。

この数日、特に大胆に進むこともなかった。考えてみると、あと10日と少しで一年も残り11ケ月となる。これがサラリーマンなら、だらだら過ごしても給料日を迎えることになるので、それはそれで意味がある。でも。そんな生き方は返上したのだから、常に果敢に先に挑まなくてはならない。

気が付いたら時間が無いってことがないように。


le 17 mercredi 水曜日
//降ってきました//可愛い形が降ってきました。なんて有難いことかと思います。確かに可愛い形は必要だなと思っていましたが、だからと言って考えることなく、本日、新工房から戻ってきたら、ふっと湧き上がってきました。

最近、日に入りが長くなってきたと感じます。光の春。春は光からやってきます。


le 16 mardi 火曜日
//可愛いもの//これを2-3表現していきたい。子供たちに、子供の頃を思い出す大人に、なにかしらの可愛い表現を確立したいのだ。

//欲しい工作機械//これが木工なのです。電動のこぎり。電動糸鋸。電動研磨機。ベルトサンダー。彼是欲しいのですが、工房もそんなに広くないし、どうしましょう。


le 15 lundi 月曜日
//組み合わせ//世の中の富も美も命でさえも物質の組み合わせだと、つくづく思います。今期、我が家の柿の木は大豊作でした。50kg100kgの収穫があったと思いますが、根から水分、葉から太陽光。この吸収で枝がしなる豊作。この柿を鳥が虫が食べ、太った頃に何かに食べられてします。このような循環は地球を覆っています。実に不思議なのは、絶え間なく物質の組み換えを行い、これにより命が生まれ、命が長続きし、樹木から建築が紙が木炭が。色んなものが姿形を変え、何かに使われる。例えば江戸と現在の大東京を比べると、今の東京には大量のコンクリートや鉄、ガラス、プラスチックに覆われていますが、地球の重さは変わらない。

世にいう繁栄も美も富も、長寿や人口増加であっても、地球上の何かの物質を組み換え、時に一か所に集中させたりもしますが、地球の重さは変わらない。

動物も植物も火山活動や地殻変動であっても、全ては元素の組み換え作業。芸術であっても名画であっても。

まったく説明のつかないものを魔法のように生み出しているわけではない。地球に出来ることをしているだけ。大自然の恵みとも言うだろうし、諸々の命、物質・元素、これらを組み替えて、美にしたり美味しいものになったり温かい衣服や食肉に果物・穀物。自動車に映画に書籍。

陶芸であっても、物質を組み替えているだけ。この組み換えの領域が動物には出来ない幅であるのだが、全てにおいて程度の差であって、行っていることは同じこと。新しい存在を生み出し、地球を重くしているわけではない。見慣れない物質に組み替えただけで、全ては借り物。

食肉を食べて、私は今日も一日命を伸ばしたが、これも仮の命の存在を一旦私の命に取り入れただけ。私もいつか燃やされ炭素となって植物に吸収される。

人間がこの世に生まれたと言うことは、如何にして借りてきた物質を光放つ物に組み替えるかと言うことでしょう。たまたま、私は陶芸を選びましたが、根から水分と養分、葉から太陽光を吸収して甘い果実を生み出す柿の木となんら変わりません。いやいや、遥かに柿の木の方が高度な組み換えを行っている。

人間として陶芸家として生きることを選んだからには、物質を組み換えて美を創出し続けることが、私の甘い果実である。地球の重さは変わらない。愛情と敬意を持ち続け大胆に活動すれば良いのだ。


le 14 dimanche 日曜日
//降りてくる形//本日は久々に終日ロクロ。何度も言うのですが、何を作ろうと選ぶのは自分ではなくて、そういう夢中が降りてくる。なので無理して別な形を作っても上手く行かない。全く不思議なのですが、表面的には別なものを二つ考えていて、一つの形は三個のみ。もう一つは単純な形状なのに一個も完成に至らず。それから降りてきた形状なのですが、これは初めての事ですがスラスラと12個。

だから計画的に物事を進めても上手く行かないことを、私はどこかで知っていると思うので、いつも、その衝動が高ぶるまでは放置したりしています。

陶芸をする前の事ですが、冬の朝、全くの青空だから、どこそこへ行くと車を飛ばしたのですが、強烈にあったのは、これを邪魔されたくないとの思い。今から思うと通底しているところがあって、その思いと行動を一致させるためには、私は一人でなければならないと、ここに価値を置いているのだ。


le 13 samedi 土曜日
//豆炭アンカ//これを一つ、今お腹に抱えています。正確に言うとダウンの中に忍ばせています。これが効果覿面で、全身ポカポカ、全く暖房要らずになります。唯一の難点は移動時には取り外すことですが、それをはるかに上回る暖房効果。

これより読書の時間とします。今日は全く陶芸から離れた日としました。


le 12 vendredi 金曜日
//なるほど!!!//去年の熊の湯で気が付いたことの上書きになります。今から思うと再三再四、私に襲い掛かり物心ついてから熊の湯まで。それもそうだと。つまり、感情とは恐ろしいもので、嫌なことを言葉ではなく単語ではなく具体的でもなく感情で、あの時の場合は悪感情なのですが、そういうものを頭で再生すると、サウンドとして再生すると100%具現化される。この悪循環を断ち切ったのが去年の熊の湯でした。

さて、上記の記述は含みも深いのですが、なぜ連綿として続いたのだろう?願とは、具体的であると叶わない。祈りも然り。私はなかばパニックのように嫌なサウンドのみを再生していた。そこには賽銭箱の前で祈るような理路整然とした姿ではなく、混沌とした心的振動。残念なのは、それが喜びとか感謝、達成感でなかったこと。ただ、言葉にならない喜怒哀楽の心的振動(あえて感情とは書きません)が一定レベルを超え響かそうものなら必ず叶うことを、私は半世紀近く結果としては願っていない姿でしたが証明していたのだ。

願いは叶うのだが、願っては叶わない。言葉にしても叶わない。その時、承りたい感情の響きを再生させると、あとから響きに応じた事象が具現化するのだ。心に、どのような響きを放射させるか。全く単純なのですが、考える作業から言葉を排したら見えてきました。
言葉は便利であり細部まで表現できる。人間のみに与えられた言語で森羅万象を表現できるかと思ったら、とんでもない弱点があったのだと。

もちろん言霊という言葉の力は絶大です。現実世界として疎まれる発言と喜ばれる発言のどちらの口癖のものに幸せが到来するかと言えば後者なのだが、まるで奇蹟が起こったような出来事は、響きにて到来させるものだと。大人になっても子供のような無邪気な心の持ち主に、アッと驚く奇蹟も到来するのだろう。


le 11 jeudi 木曜日
//疲れた//浜松の三日間は寒中の業。それ以降も本日夕方まで釉薬改めの儀で名古屋にて寒中の業。ようやく寒の業を終えたのですが、一気に疲れが出てきました。本日は早く寝るとします。

明日から轆轤造形。楽しみな時間です。


le 10 mercredi 水曜日
//情//良くお金はあの世に持っていけないと言います。もし死んで魂が肉体から離脱する時、私たちは何を持っていくことが出来るだろうか??死んだと同時に電気窯が無くなった!! こういう場合なら、お金もあの世に持って行けるけど、そんなことはあり得ない。物質は0.000001gであってもあの世に持っていくことはできない。
つまり魂とは何ぞや??になってしまう。これを考えると、その人の生前の記憶(情報)のみだと。物質は、現世だけの事であり、死んでしまえば全く意味をなさない。

どんな感情を携え昇天するか。ああ私は今、この肉体から離れると理解し旅立つとき、我が人生の豊かさに感謝や感動の情を持っていくのでしょうか??

こう考えると、物質とはこの世の仮の姿で、情→物質→情と、基本的には感情とか情報、つまり人生の記録や味わいの流転であって、それが物質化するのは極短い期間の事であると。

人間は肉体を持つと物質的な願いをするのだが、これがちっとも叶わない。その願いを、喜びの感情が到来しますようにと言い換えたら、簡単に何かしらの喜び事が顕在化するのかもしれません。その過程で、何かしらの物質的な形状を二次的に携えるのかも。

本日は昨日の続きで終日釉薬を篩に掛けました。養老の滝のように、この釉薬が篩を通過したら見事な変身を遂げることなどない。そういう願いを掛けても無駄に終わる。だけど、もっと良い釉薬が生み出されたときの喜びの感情を、それを願っていたなら、年内の実験によって、この感情を再現する釉薬を発見するかもしれません。それは結果的に感情に付随して良き物質が具現化・携行されている。

米を食いたいと、そういう物質的な願いは、いつまでたっても顕現されない。そして万事窮して盗みに入る。ところが農民が田んぼの世話をしながら、収穫の喜びの感情を願いながら汗をかくなら、年貢以上の豊作が到来する。

願いとは、日々の働きや貢献・努力の結果を喜び思うものであって、予祝を神仏の前で思い描き感謝することであり、寝ながら果実を得ることはない。果報は寝て待てとは、するべき事をしたものの疲れを癒す睡眠の先にあるものだと思う。

何時の頃からか人間は物質的な事ばかり考え感情は相当に下位に置かれ、ともすれば物質の収得に伴う後発的な表現に劣化してしまった。そこに人間の苦しみが生まれるのだろう。物質ありきで人生を考えると、喜びはますます遠ざかり、喜ぶ以前に労苦を味わうことになる。それよりも、まずは喜びなどの感情を全てにおいて優先し物事に取り組めば、物質世界の結果としても喜ばしい形に収まるのだろう。


le 9 mardi 火曜日
//返金//本日は第二作の諸々の試験を。すると初回が全くの不良だと気づき、前回四点取引してくれた先方に、この旨を速報し返金したいと申し出ました。 こういうところを誤魔化して先に進んでも、それこそ先が知れている。今、とても心が清々しいです。

それから釉薬の調整を。全釉薬を篩にかけ濃度も再調整しますので明日以降も引き続き。

今日は遅くまで寝ているものだと思ったら睡眠が深いようで案外早起き。


le 8 lundi 月曜日
//0//本日も寒中の業。さらに寒い。売り上げゼロでした。全体を通しても赤字。言い方を変えたら、お金を減らすために出店したことになる。だから、なおさら昨日の彼女に声を掛けていたなら私も救われただろうと。

ですが、この三日間は私にとって経験するべき意味のある事だったのです。その振り返りをしています。

//瞬間を逃がすな//最大の収穫は、人生には良き出会いも多いけれど瞬間で通り過ぎていく。躊躇せずに、その瞬間を我がものに引き寄せること。これで、その後は劇的に変わる。もし昨日の彼女に声を掛けることが出来たなら、彼女の生涯に一つの花束を贈ることが出来たはず。たった一言、それさえあれば、春のような温かき心の光景を提供できたのに。残念でなりませんが、この意味を生涯私が持ち続けるのなら、きっと大きな意味に変わっていくのでしょう。

瞬間を躊躇して、どれだけのものを失ったことか。躊躇わず声を掛けて、それで殺されるわけでもないのだから、果敢に俊敏に。良きことは流れ星のように、それも流星群のように人生を交差する。ひょっとしたら、それを受け止めるか、やり過ごすか、人生の浮き沈みはたったこれだけの違いなのかもしれない。


le 7 dimanche 日曜日
//浜松二日目//さらに寒い日。更に惨憺たるもの。それは一月に出店した私の判断の甘さなので仕方ありません。この日は心に残る、心残りが。

成人式でした。見たことのあるお嬢さんが晴れ着で通り過ぎた。私は走ってでも声を掛けて、目出度き日だから好きなのを持って行って下さいと言うべきだった。
彼女は、1/5位に外国のルーツがある顔立ち。でも見る姿はいつも一人。何回か私の器を見にきましたが、お金が足りないのか、いつも帰る。いつも一人で。今日見た彼女は、晴れ着でありましたが、埃っぽく汚れた晴れ着で着付けも崩れたものだった。その時、彼女の境遇を言い当てた感がした。そういう階層の人にボランティアから無償で提供された晴れ着なのだと。

せめて人の心に一生残る温かき思い出を添えることが出来たなら、どんなに寒かろうが売り上げが無かろうが私も春の心持ちでいられたのに。走ってでも声を掛けるべきだったと後悔するばかり。


le 6 samedi 土曜日
//浜松初日//ビルとビルの間で一日中風の通る場所。夏は猛暑でも汗一つ掻かないのに冬は寒中の業でした。その初日です。まずは売り上げの惨憺たることよ。街に人通りが少ないうえに、あったとしても立ち止まる人もいない。
それなのにお買い上げしてくれる人もいました。

2024年の最初の売上金は、そのままスライドで義援金に。駅前で拉致被害者救出のブルーリボンの活動があり、署名と共に能登半島の義援金に。


le 5 vendredi 金曜日
//300個//結晶釉は流れやすい性質があり、如何に耐えうるかが開発の主軸。今、テストピースと生産を合わせる意味合いで300個ほど一輪挿しを作りたくて仕方がない。エレガントでゴージャスな一輪挿しを作ったら世界一と言われるほどに創作意欲が高まっています。500個でも良いかな。
この段階が済んだら香炉とかにも軸足を広げていきたい。

今、慣れた世界で安穏としていたら年末に後悔するだろう。同じことの繰り返しは全く安楽だが私には贅沢過ぎる。果敢に積極的に人生を拓いていかねば。

定年の無い人生を選択したので、ある種の配慮を老齢の何処かの段階で始めるとするなら、その時に決まったサイクルの生活に移行する。これを私の疑似定年とし、それまでは果敢に果敢を重ねます。全く不思議な御縁を数多く、そして太く力強く我がものとして世界を広げていきたい。


le 4 jeudi 木曜日
//第一章・えっっっそんなことも出来ないの?//この三日ほど特に思うので書きますね。
私たちは、アメリカに行くこともできるし飛行機で高いところにも行ける。人類の技術は人を月のもやる。北朝鮮でもないし国民は自由に動き回れる。

と自由の広大無辺を思った。ところが大晦日、それは針の上の出来事で次々に光景がやって来ると書きました。そうしたら激しく思い始めたのです。

私たちは自由と思っても、今という瞬間、つまり薄い薄い今という層の表面を行き来しているだけで、時間の超越が出来ない。もしかして次元の違う世界があって、彼らは未来にも過去にも行けるとしたら、地球人の存在なんて顕微鏡で見る動き回る微生物と何ら変わらないのではと。

微生物は硝子盤の上を自由に動き回る。それを全く自由だと思っているのに観察する人間は狭い世界なのに哀れなものよと、微生物の世界を眺める。でも当の微生物は何らの制約も受けないから、全く自由なのだ。

これと同じで人類は薄い今という層の中を自由に動き回って、微塵たりとも制約を覚えない。ところが過去にも未来にも行ける世界があると知った時、人類は息も詰まる閉塞感に襲われるのだろう。我々には今しか選択肢が無いと。なんて自由が無いのだと。好きな時間に行けれない。監獄だと。これは絶望に似ているのかもしれない。

もう一つ次元の高い世界があれば、我々の今という平面移動のどの地点からも、未来にも過去にも行ける。

さらに次元の高い世界は、時間移動したその先で、そこでの今を好きに動き回り、ここぞと思う地点で、また過去に行ったり未来に行ったり。(
こうなると、もはや肉体など無用で、その時そこで生きる誰かの眼球や脳に乗り移れば良い。それか遠巻きに眺めているだけでも良い

これを無限に繰り返すと、ジャングルジムのような構造で、どの地点からでも、違和感ないその世界が広がっている。

仮に、今書いたことが真実としたら、人類は【今】という平面で生きる存在で、立体構造を認識すらできない。高次な存在は、全体を含めて立体で観察できる。選択肢が多ければ一つ下級な世界は、「そんなことも出来ないのか!」と憐れんで眺めるでしょう。地球人なんて、窮屈すぎる。こんなところで生活するなんてあり得ないと。

だから高次元の生命体が地球に来るなんてあり得ないと思うのです。だれが、こんな息の詰まる世界に行くものかと。

もしかしたら、我々も昇天したら、立体的に地球の今を眺める位置に移動するのかもしれません。でも、そうなったら地球で味わった現世とは息の詰まる修行の場だと、あんまり関わりたくないものだと、さらに先へ進むのかもしれません。

//第二章//第一章で書いたことを真実だとしたら、次元の低いものは高い世界を想像すらできない。次元の高いものは、低い世界など魅力のひとかけらも感じない。だから天から有難い存在が舞い降りて我々を救うなんて、絵空事かも知れない。

唯一の希望は、次元の低いものは、次元の高い世界を想像して、そこで知見を得て天啓と成す。脳内だけは全く自由なのですから。ただ、その脳内の想像も通常では考えの及ばない世界を旅するのだから、難しいと言えば難しい。
だから瞑想なのだろう。もはや超絶した感覚に我が魂を追いやって、あとはクラゲのように自由に泳いで知見を得よと。

いや今思うのだが、天啓を得たいなら、第一章の太文字で書いたように、高次元を自由に移動する魂の仮の宿として我が身を提供するしか無いと。私に閃く天啓は私が探し求めたものではなく、自由に動く高次の魂が、その時私に宿しただけだと。

ここからは急に俗世に戻りますが、結論から言うと、仮の宿としても良いと思われる精神の持ち主でないと、奇蹟は起こらないのだと。超人のような活躍とか、それは【この人なら少し付き合うか】と思ってくれたからだと考えます。

瞑想とは、全能に少し宿ってもらえないかと、その近くに行くことである。


le 3 mercredi 水曜日
//あの頃私は緊張していた//前職の頃、長いお休みが終わる前日の夜は、今後の安寧無事を祈って真剣に祈りました。特に正月休みが終わる、その晩は真剣に真剣を重ねた祈り。

今、あの頃の祈りを捧げているかというと真剣さに欠けるところがある。あの頃の祈りは課員の生命安全を真剣に祈っていた。思うに対象が自分でないから、あそこまで真剣になれたと思う。今は祈りの不始末があっても自分が困るだけと、そういう意味で真剣さに欠ける。

おかしな話だ。陶芸に専念したいから今があるというのに、その今の価値が昔に劣るのか??私は、私が陶芸をする意味の成就を真剣に祈らねばならない。
心底に、祈りの次元を今より高めなければと沸々と感じる。


le 2 mardi 火曜日
//国家鎮護//天皇家がもっと神聖に扱われ神道祭祀の最高神官として、その活動を国家として支える仕組みがあればと切に思う。ただ現行憲法の下では無理もあると思うから全国の寺社は国家鎮護の祈祷を真剣に捧げて欲しい。

宗教に携わる者の、その真剣な祈りが宗教界に存在するのだろうかと疑ってしまいます。
日本国家に存する祈りの力量が危機的水準まで低下しているのだろうと、徐々に警告が顕現されているように思えてならない。

大自然の猛威や災難の類に各人出来ることは限られていると思いますが、日本人誰しもが自然神を崇拝する日常行動にあって、一億の祈りが捧げられるとしたなら、今後迫られる選択も良きを選んで、それが日本の道にもなると思う。

ただ現実は、日本精神など崩壊したような行動が勢いを増している。もはや祈りの効用を信じる者のみが、祈りの範囲を広げて、鎮護の祈りも捧げる者でなければと思う。


Nouvel An lundi 月曜日
//あけましておめでとうございます//思いを巡らす全ての人に安寧と繁栄を。

本日は元旦。流石にのんびりしますが明日から諸々動き出そうと思います。

年末には10大ニュースを挙げますが、年始に10大目標を挙げたことはない。これは挙げたとして守られることはないという自己認識故の行動です。ただ漠然として新工房への移行完了。これに伴い届を出すとか、それが何時の事か分りませんが、その様に舵を切ると言うことになります。

こんなノンビリな事を書いてはいるものの、今年は過去最大の激変の年だと思っています。それは三重県民になるという、とうとう窓の外から見える光景も変わる年。もちろん名古屋の基盤を維持した上での二重生活ですが、新基準元年となりそうです。

先々を思うと、雲を掴むようなもので不安に思えたりもします。これを乗り切る唯一の方法は、何事も積極的に今を、今に焦点を絞って懸命に生きる。これ以外にないと思うのです。これを行動の基軸とすれば、これに伴う結果はどうであれ現時点で最も意味あるものとして私に与えられたと、迷いなく解釈できます。未来の事など分らないのだから、今しか生きられないのだから今と真剣に渡り合うってことになります。何事も果敢に一生懸命。怯む心が湧き上がれば積極の精神でその都度撃破です。人生は一回。今年52歳。貴重な生存年月を無駄にする余裕など一切ない。美を作り上げねば!!



 
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