mars.2009


le 31 mardi

//つづぎ 色を変えるのは、小説// その前を通り過ぎる勤め人も、だいたい同一の人物だと僕は知っている。人の生活は、彼女に限らず定刻を旨にしているのだろう。そんな僕もレースのカーテンの向こうの小さな光景を、肘をつき、ぼーっと眺めるのが好きだ。そして朝の旨としている。

変わることなく繰り広げられる小さな洗濯ショーを見なければ、なぜか勉強する気も湧かないのだ。 
勤め人Aは、彼女と挨拶をする。お互いに会釈を欠かさないのだが、決して、それ以上話すそぶりは見せない。  そしてすぐ後に続くのが、勤め人B。開けたドアを見てしまうのに抵抗を感じるのだろうか、彼は彼女を無視するのだが、この入り組んだ路地は、他にも選択肢はあろうものなのに、勤め人Bも定刻の人であり、定時この前を通り過ぎる。

それにしても、一人の女性が生きていくには不自然な洗濯であるよ。
僕が、一人暮らしを始めたとするなら、まさか
あんな洗濯はしないと思うし、まさに眼下に存在する、巨大ミステリー。

le 30 lundi
//色を変えます// 
だとすれば、この洗濯量は誰のものなのだうろか。一人の女性が生きていくには異常な洗濯回数。 寒波が到来しようとも、正月でも、彼女は、人が排泄するのをやめれないように、洗濯をする。  この異常さを知ってもらいたいのだが、喪の明けぬ彼女を、今にアレコレ言うのは、人として慎むべきなのかもしれない。

私が、その異常さに惹かれるのは、ことさらに多い洗濯量と、その狂わない時間だ。定刻に電車が出るように、彼女の洗濯は、その物音が聞こえる範囲にとって、もうとうの昔に騒音という低俗なものでなく、ペースメーカーというか、それぞれが生活の正常を確認できる音なのだ。
人によっては、そろそろ朝食を片付ける音であり、目覚ましの音として認識する人も多いはずだ。

古い木造アパートの一階の玄関先に、洗濯機を置き、彼女はこれまた必ずドアを明けながら洗濯をする。  脱水の音が近所迷惑と認識しているのだろう。彼女は、全てを一つづつ取り出しては、コンクリートの上に絞り水を落とす。絞り水を落とした洗濯物を部屋に干すのか、彼女は消えて、また表に出る。

僕の部屋の机の向こうの窓の下に、彼女の姿は、NHKの定時のニュースのように、毎日、変わることなく認識できる。


つづく。

le 29 dimanche
//無垢の心で楽しめない// 昔は、その景色にときめいて心から楽しみました。原風景でもある。風の心地や土の匂い。

今でも、それに接すると懐かしいものを全身で感じるのでしょう。
なのに、あえて避けてしまう自分が居る。

それは期待されている身の処し方ができない、贖罪の気持ち。

なのに、温かく迎えてくれるのだから、心底暖かい情を感じてしまう。


いろいろと考えた。大宇宙の仕業??
戦争もせず、平和で隆盛を極める国家が下降線をたどるのを宿命とするならば、僕のような身の処し方は、自然の摂理なのかと。
そうであるなら、それなりの色欲と幸せを願いたいものですが、
やはり心のどこかに、期待されている自分の贖罪の気持ちから、そこまでの逸脱と省みない快楽は罰当たりなのかと思ったりもする。

僕は期待されている身の処し方ができないのだから、それなら相応の制裁があってしかるべきなのかと。

住む世界は違えども、人を愛することは大切だと思っているのです。
ただ、今の僕は、片方の愛を無碍に拒絶しているのだから、一方に愛を求めるのは卑怯なのだと、身の置き所に動かぬものを持っている。

ところが、それは小さな自分の価値観で、もし、大宇宙の摂理だとしたなら、身の処し方云々はやめて、今の生き方で幸せをつかむべきなのかと、それで責められることも無いと思ったりもした。


ご先祖様が僕を天国から覗くとき、代を継がない、この生き方を嘆いているのでしょうか?    それとも、僕なりの幸せを願っているのでしょうか?

それだけは知りたいのです。ただ前者だとしても、僕はその期待に応えられないかもしれない。その場合、やはり贖罪の気持ちは表すべきなのでしょうか。

もう、だいぶと前から自分の幸せなんて、
あまり考えもせず執着もしなくなりました。
ただただ、皆さんに幸せが訪れたらと。

動いても良いという指令が、具体的に夢の中で発令されたら、動くのでしょうが、この世界にいたとしても、贖罪の気持ちは表すべきなのかと、現状は、そのままなのです。

le 28 samedi
//拍子抜け// もっと凄まじい大渋滞を予想していたのですが。
でも、踊らされない国民がことのほか多いということは、たとえ1000円でも支出の抑制を優先しているのでしょうか。この不景気の深さを知るべき契機となりました。

本日は、大阪のリッツカールトンへお買い物。意としていたタオルを買いました。  このタオルの色合いが実によい。
僕の車のシートは真っ黒で、革。特に夏場は汗の逃げ場がなくなり不快になります。  そこで座布団が必要になるのですが、このタオルの色合いが実にしっくりくるのです。

すでに、その試みはだいぶと前から実践していましたが、
タオルがくたびれてきましたので買い換えたいと思っていたのです。

ところが、ここでしか売っていないものに、せっかくだからと財布も緩み大散財。故に、大反省。

岐路、亀山で名古屋方面を断念。
不意に、祖母の家に寄ることに決めました。
よい選択をしたと思っています。

そりゃ、名古屋に戻って好き勝手もすれば、いろいろと楽しいのでしょうが、
祖母の家に行き、生産的なことなど何一つせず、顔を見合わせ会話することに、今日は、とても意味があるのだと思たのです。

仏壇に手を合わせる。
ただただ平伏すばかり。

le 27 vendredi
//ジャイアニズム// 自己愛人格障害。自分のことは際限なく欲に任せて動くけど、他人に関しては厳しく当たる。

誰彼なく自分は可愛い。たぶん、その程度なんでしょう。

社会の規範があるので、行動は制約されます。
その分、週末は開放的になる。

ところがジャイアニズムだと、平日でも欲に任せて行動する。
そんな逸脱を平然と行っていても、こと他人に関しては厳しく当たる。

何じゃこりゃ!?と言いたいのですが、精神疾患ならしかたないのかな??

//自己愛とアル中のコラボレーション// 最強というか最悪というか。
でも、これも精神疾患なら温かく見守るべきなのでしょうか??????

実に変だと思う。正社員だから、まだ若いからといって、際限なく、再起を伺うのって、ただの管理放棄だと思うのですよ。
世の中には、品行方正で真面目なのに、就職氷河期のあおりで派遣のまま時が過ぎ去り、今、辛酸をなめている人も沢山居ると思います。
【自己愛とアル中のコラボ】を解雇して、必死になって職を求めている人に、その席を与えるほうが道徳的だと思うのですが。

le 26 jeudi
//一番悔しいことかも// 入社以来。  一番の推進者で、自分でアレコレ動き回っていた、「もう、こうする!」と関連の部署に言う。

確かに、道理を得ているのですが、やはりセクショナリズム。
事態の急変は望んでいない。「頼むから、止めてくれ」と、何度か哀願。

結局、お前が弱腰だから、こうなってしまったと、僕が、そう思われているのが、とても悔しいです。


ただ、昔に比べて懐が広くなったのでしょうか。
確かに悔しいのですが、同時に心の片隅では、
会社人生では悔しさも付き物って達観もしています。

完璧だ!ということも、惨憺たることも長続きしない。
評価されっぱなしも、ありえない。その逆も。

常に変化していて、その変化に対応していくかどうか。

le 25 mercredi
//皆幸せになれば良いのに!!//嫌味とか、僻みやっかみでもなく。皆、幸せになって、皆が皆、恋に盲目になれる人が居る。僕はそうでなくてもよいよ。

一体何のこと???

皆が皆、幸せなら、それで良いのです。
もう、アレコレ詮索したり、割り込むことを考える必要もなくなるから。

最近、全然音沙汰が無い!とヤキモキしていたとしても、彼が大恋愛の最中なら簡単に納得できるでしょ。  だから、幸せになって欲しいと、心から願うのです。

何か、気に障ることいったっけ!?とか、許しを請う文言を考えるとか、そんなつまらないことを考えることも必要ないし。  もう、一生付き合える人と今、出会ったばかりで大恋愛に燃えていて欲しいわ。ホントに。

le 24 mardi
//やはり、// 波長が合ったりするのは、もちろんのことだけれど、やはり、ときめかなければならないと思うのです。多少なりとも。  自分を磨かなくては。


小沢さんも辞めればよいのに。本人にとってはやましいことは無いといっても、民主党の足を引っ張っているのは事実なんだから。
大前提は政権交代でしょ。だったら、その足を引っ張っているのなら辞めるべきだと。  

le 23 lundi
//もしかして、アレ??// 頑固者でも度が過ぎると、
人格障害と陰口されてしまう。あな、恐ろしや。



さて、日本では今一ぱっとしないアメリカ車。そんな中にあってどうしても欲しい車があります。しかも、20年ほど前の車種。

それはビュイック。あの保守的なデザインは、憧れてしまいます。
でも、今買うとなると、安いのでしょうが全て中古車。
よほど手入れの行き届いた車なら、欲しいのだけれど、
たぶん、腰を抜かす燃費の悪さだったりして。

le 22 dimanche
//素敵な40代//も、そろそろ視野に入れるべきか。今年で37歳。
素敵な40代。体系に崩れのない人。アクティブな人。時間の過ごし方に芯のある人。

本日は、冷たい雨が降り一日部屋に篭る。
ノイズの入る岐阜ラジオを聴いて、気分だけでも旅先ということで。

願わくば、僕が岐阜県の関市あたりに住んでいて、
ここは平野と山地の分かれ目。小高い山がポツポツと点在していて、
今日のような天気は、緑の山というより黒い山に立ち昇る霧。

le 21 samedi
//車なら、飛ばさないところに// エレガンスを感じます。
休日なら、のんびりしている所に、お酒なら控えめに。

この三連休。焼津にて旨い寿司を喰いに宿泊したのが全てになりそうです。
昼過ぎには名古屋に戻り、今、のんびりしています。
明日は天気も悪そうだし、この延長線になるのでしょう。


三連休は年に何度かあるけれど、土-日-月。
金曜から始まる三連休って、なんだか不思議な感覚です。

le 20 vendredi
//愛される// 例えば僕が困っているとき、周囲からの支援の有無は、まさしく日頃の僕そのものの姿が反映されるのでしょう。  彼が困っているとき、何かしてあげたい気持ちと冷笑する気持ちの境界線は、やはり彼の日常が大きく左右します。  ここまで言うのは語弊があるのかもしれませんが、もう一度チャンスを与えるか、見切りをつけるか、それはその人の偽りの無い日常の積み重ね。



寛容は大切だと思うのです。
皆が皆、サービスとして、なにか背負ってあげれたなら、
社会はもっと懐も広くなるでしょう。

例えば、対人関係の苦手な人を、ビジネスに不向きだからと切り捨てるのではなく、本来、そこまで考える必要は無いのかもしれませんが、親身になって考えて、彼の能力が発揮できるような何かの枠組みを作る。

皆が皆、少しだけ、関係の無いことでも考えてあげる余裕を持つ。

そういう優しさは大切だと思うのです。

では、受け手になる側には何を求めるべきでしょうか。
やはり、そういう手間隙が向けられたことは察知すべきでしょう。
無理な努力をしろとは言いませんが、無頓着になるのはいただけれません。

もし、そういう好意が邪魔だと思うのなら、やはり、居るべき場所ではないと自分から去って行ってもらいたいです。


旨い寿司を喰いに、焼津に泊まる週末でした。

le 19 jeudi
//調子良いこと書いていても// 実践しなくてはなりません。  その気が湧かなかったり、ほかに楽しいことがあって時間が取れなかったり。
でも、それに何の理由も要りません。所詮その程度の問題なのでしょう。
解決したい問題があると思いつつ、パワーの要する祈りの実践をしない場合、問題は解決されない。  どれほど解決を願っているのか。結局、ここに起因すると思っています。

失ってみたら、その損失の大きさを知るのかもしれませんが、ひょっとしたら消えてしまえと思っている自分がいるのかもしれません。

このような場合、例えば、判断は別として、結果を願い、最善の形で導いてくれることを願わなくてはなりません。

祈りの文句は、実は科学的で、曖昧さとか都合の良い時期の修正とか、案外に効かないものです。その一連の行為には時間とパワーを要するので、そう簡単にポイポイと祈れるわけではありません。祈るときは無駄なく不足することの無い語句を考えなければならないと思っています。

起きているのに心静か。このような環境で唱える語句は短くて無駄も不足も無いものに。百貨店のような祈りは、二兎追うものではありませんが、恐らく頓挫するでしょう。 


つい、いろいろと書いていますが、
では、何故祈るの?といわれれば、
やはり信じる者は救われる、だからかな。僕は曹洞宗だけれど。


信じた上での、安心感のある祈り。

この大前提の信じるは、それぞれに思うところがあって信じる信じられないがあるので僕は言いません。自分を後押しして欲しい何かを見つけたいと思うのなら、信じるに値する確信を得たいと思うのなら、聖書なり仏典なりコーランなんかを、つまり変なおじさんの数十年の教義は無く、何千年と人類が信じてきた聖典なんかに目を通すのは、最も効率的な方法だと思っています。

le 18 mercredi
//祈りの大先輩を真似てみよう// 大昔から実践している人たちの姿を真似たり借用するのは、無駄な時間を省く大切な行為だと思っています。

祈りの世界。例えば日本のお寺さんでの読経。チベット仏教の読経。イスラム寺院での礼拝、キリストの賛美歌。  そこに共通するものを見出し真似てみる。

布団に入りながら祈るスタイルは、採用していません。
皆、見つめるところがあったり座ったり、スタイルというものがあります。
せんべい食べながら座布団を枕にして、眠たくなった頃に祈ってみたとしても、効果はなさそうです。  まずは精神が集中できるスタイル。
そして、僕が思ったのは、周波数。あの講堂に響く多重な音のハーモニーが実に大切なのかと思っています。

僕は三通りのスタイルで祈っています。
平日欠かさないのは、地下鉄での精神統一。毎日の無事と平穏を願う。

つぎに、厄介な問題が起きたとき、寝る前にベッドの上で、正座なり背筋を伸ばして精神統一。

さらに大きな問題には、湯に浸かりながら読経のような声を出して、言葉にならないようなボソボソとした感じなのでしょう。読経のような声を上げ願い精神を統一する。

この場合、湯から上がって、ベッドの上でもう一度祈り、そして何も考えず寝る。  信じる者は、信じているのだから、寝ている間に、尊い何かが解決してくれているのです。

le 17 mardi
//競馬で、行け行け!と願う気持ち。//とは、正反対の祈りのスタイル。
何かを願う形に持っていく場合、心静かに雑念無く。願う姿を脱力した集中の中で思い、いづれ無心とする。でも寝ていない自分。
これは脱力と称していても、あんがいとパワーを要すること。
時間も必要ですし、その環境を整える準備も大切。
そして、そう思うことへの心底の欲求がないと駄目です。
願うことの、深い気持ちって言うのは、全ての願望に等しく備わっているわけではありません。  あれも欲しい、これも欲しい、あーなりたい、こーしたい。
そう思うことは多々あったとしても、深い精神的統一と豊かな時間の中に大切に語りかけるほどの手間隙と価値があるのかといえば、そうでもない。
上記にも書いたとおり、パワーを要する一連の行為。
だから、全てのターゲットに、そんな祈りの文句を言うことじたい、山に篭る以外に難しいと思っています。

私たちは、思い煩い願うことは多いのだけれど、その実、相当部分に真剣な思いを寄せるほどの痛みは感じていない。水を遣るつもりは湧かない。雨が降ればよいと思っている。  その程度の草花。

le 16 lundi
//今週は、祈りの科学シリーズ// 僕は、日記にたびたび祈りの効用を書いています。  もちろん日々実践しています。  そして、自分に多くの恵みを齎してくれました。   昔は、いろいろと活字にしてきましたが、今になっては慣れというか感覚で分かる世界で、他人に説明しづらい。

まず第一は、無条件に、この効用を信じることでしょう。
信じる者は救われるとは名言で、僕はこの一節を瞑想における心の持ちようだと信じています。  

では、何故、信じれば叶うのか。

ここを活字で説明するのが本丸を攻めるようなものですが、なかなか難しい。
ただ経験として、そうなのです。  そして、そういう経験の持ち主は多く存在していて、これを統計学的に判断すれば、信じるに値する行為だと証明できそうですが、では何がそうしてくれるのかといえば言葉が無い。
大宇宙。神。仏。ご先祖様。  よく分かりません。

ただ、心静かに、信じ祈るということは、そのターゲットを思う方向に導いてくれる。  先日の仕事のトラブルは、。考えてみれば、想定していないところの噴出。  今からでも遅くは無いのです。信じ、祈る。

le 14 samedi et 15 dimanche
//乗鞍でスノーシュー// 素晴らしい天気にも恵まれ、記憶に残る休日を楽しむことができました。二日間、ガイドさんとご一緒のスノーシュー。
一流のプロって、こういう仕事をするのだと、誰彼と無く感服。

この週末は、仕事のこともすっかり忘れて転地療法。

年末に一年を振り返ってみて、如何に思いで深い日々をすごすことができたのか。この多少の違いが、その一年の質であり、この繰り返しが人生の質だと思っています。

僕たちは、思いもよらぬ速さで年金生活者になり、そして足腰の自由も利かなくなるのです。  記憶に残る日々を。

le 13 vendredi
//自己批判// 無駄なく効率的に。それを旨としてきました。効率的にすれば、余裕が生まれ、働く者も救われると。  人の心の繋がりを全く考えていませんでした。   汗を流す者がいて、初めて存在する。  僕は、本心から敬意を払っていただろうか。  ここに来て、全く関係のない諸問題が、一気に押し寄せた感じです。  でも、突き止めれば、もっと深い愛情で持って接していたのなら、懸案の二つほどは無かったのでしょう。

私は、仕事に厳しい。自分にも厳しい。だから発言権があると信じていました。もちろん、これには道理があって、これからも持ち続けるのでしょう。
ただ、価値観が違えども真面目に働くものを、同列に扱うことのできなかった僕は失格です。

le 12 jeudi
//早く寝る寝る運動// 週末は予定があって休養に回せない。そんな時は平日に小学生のような時間に寝ることを数日。  これで疲れは癒され十分な英気を養うことができます。   実は、ここ数日、早く寝る寝る運動。週末はチトハードなのです。

//辻の宿・追分の宿// 週末のドライブは、ほとんど山。山というのは、山と山の間に谷があり川があり道があり、たまに人が生活している。
そんな谷というか道が、もう一本接するとき、人の流れは直線的ではなく、思考する場が必要になる。進むべきが、こっちに折れるべきか。

たいてい、そのような分岐点には、小さな集落があって、宿がある。
  ←0:51、右手の民家は、辻の宿。追分の宿。

今でも、分岐の集落には、その昔、宿であった建物を見ることができます。
今は寒村になっても往時は賑わっていたのか、朱の壁に遊郭の名残を見ることもできます。

辻の宿は、足を頼りの旅人に一夜の宿を提供しただけのもの。
そこに温泉が沸くわけでもない。なのに無性に泊まりたくなってしまう。

【中部辻の宿。追分の宿】という本でも出版しようかしら???

le 11 mercredi
//エレガンス難民// それを救うのが僕の一つの使命なのでしょう。
サイト管理者として、そのような救済のページを設ける必要があるのかもしれません。  ただ、明らかに、それをupすると著作権云々で怖いので、一つの方法を考えついたのです。  それが車載動画。

  ←ワールド・オブ・エレガンスをお楽しみください。

upして思うのが、日本に、熱烈なエレガンス難民さんがいて、今、結構な頻度で食いついています。  彼の思いを満たすためにも、さらに燃料を投下している最中です。


使える物は、片落ちしてでも使ってしまう。
だから、買うときは、少し無理してでも良いものを。
それが僕の購買の傾向。

デジイチも、pcも、車も、ステレオシステムも、携帯も、
経年劣化が激しいのですが、全てに関して、未だにその用を成す。

何を買い換えるべきか。
これに追加する商品は何か!?

小さな、それなりの性能のノートpcは欲しいと思っています。

一人でブラブラ動き回るのを週末の旨とする僕は、
多くの光景と、考える時間を手元に置きます。
それを活字に仕上げるのに、ノートは効率的なアイテム。

地方都市のコーヒーショップに行き、何気もない、綺麗でもない、
でも生活の何かを感じる、ひんな光景を、小説の出だしのようにメモする。

それを取り揃える。これはいづれ意味を成す。

le 10 mardi
//ブスなら、//ブスなりに器も広く。不細工のくせして、心も狭いようでは救いようがありません。  すごい例えですが、美の基準は人それぞれ。
美しいと思う人もいれば、必ずブスと判断する人もいる。  結局、人は、心の広さで知らず知らず計られているのでしょう。

心が広ければ、救いもあるはずですが、心が狭いようでは、もしブスと思われた場合、もうどうしようもありません。


やはり、僕らは歳を重ねた分、心も広く諸々に対処するべきなのでしょう。
若さを失うのですから、貫禄で補わなくてはね。

le 9 lundi

//何も考えないというスタイル// どう死ぬか。
僕たちの生き方を推し進めるとなると、いづれ否が応でも孤独というものが近づいてくる。  今のうちに孤独に慣れるのも一つの手。  いやいや、婚姻という形ではないけれど、命続く限りのパートナーを見つける。
同志を集めて集団での生活。  老人ホームへの入居を確実に準備する。

全く、将来は不透明ですが、いつかは死ぬ。

//極限まで生きる独居老人// 古い木造アパートに、極限まで生きると決意した独居老人が一人。  幸い、人情味あふれるアパートなので、死後翌日に発見されることは確か。  それでも、この老人は、まるで死期を迎えた犬がヨレヨレになっても生っていき続けるように、見る者に、いろいろと訴えかけるものがある。


人は、何にかのスタイルで死にます。

最近思うのは、実は案外と多くの人は、何も考えず、死を迎えるということを、一つのスタイルにしているようで。

考えないという、準備しないという、幸せの日々を、如何に多く経験するか。
それはトータルの人生の質で考えた場合、○△×で○の日を多く得る一つの方法。

le 8 dimanche
//低質な時間とサヨナラ// と言いたいのですが、今回もコンニチハ。
暇であるのに、上質な時間に転換できなかった自分に自己嫌悪。

内向的なら内向的なりに生産的でなければならないと思っている。
何かを見出したり発見したり。
意味のあることを成しどけたなら静かにすごしていても合格点。




小さなノートpcでも買おうかしら?
先日の日記にペンを走らすことも大切と書きましたが
やはり、生産性の面では、打つほうが勝る。

ある物語を書きたいという衝動は、少し冷めました。
ただ、次から次へと書きたいエピソードは溢れてしまいます。

家なんです。
住みたいという家のイメージは次から次へと沸いてくるのに
その設計図という責任からは逃げてばかり。

物語を書くというのは、柱や釘。そういう肉付けが、とても大切。




行商なら滞在するであろうが、物見客には意味を見出せない宿に泊まってみて、外を眺めるのなら、止む気配のない雨。
飾り気のない部屋に、鮮やかな色彩といえばテレビの中の変わる光景なのだが、それでも我が家で見るそれと比べたら色彩に勢いがない。

行商なら、その日の儲けや明日の訪問先など、することもあろう。
ただ僕は、快活な人なら気も狂いそうな湿り気のあるこの部屋に
何かの突破口を期待するのだ。
矢を放たないことに、行き先も鮮明になると信じて。


一枚の皺だらけになってしまったその汚れた原稿は、
書きかけの物語の最終頁。
書き続けることは、もはや呪いの域に達するようで怖くもあった。

破り捨てよう。

この宿を出て、初めて会話する人。
その人となりが、物語の主人公でありたい。と、突発的に思ったりもするのだが、そう事は上手く運ぶわけでもないよ。

蛍光灯に虫が当たる。雨は激しく、雷鳴も聞こえるのだから、どうりでまだ昼というのに、走る車もライトをつけている。真っ暗だ。

陰気な部屋でも、外を眺めるに、暖かい存在だ。
早く布団を敷いて、とりあえず寝るか。


色を変えるのは、物語り。
今回もまた、突発的に書きました。

le 7 samedi
//川売(かおれ)の梅// 何度訪ねても素晴らしい。




そろそろデジイチも買い換えるべきかな。細部に埃が入りすぎている。
ただ、僕は使えるものは壊れるまで諦めがつかない性分なので、
まだ差し迫るものまでは感じないのですが。


訪れるほぼ全ての人がカメラで真剣なまなざし。
梅の花を愛でるのですが桜とは違い、皆が皆真剣。

青年が一人、カメラを構えているのも、そういう孤高具合が
なんとも言えませぬ。


孤高は、一つの美だと思っています。
ただ、凛としていて小奇麗でなければなりませんが。
無精で独り身とは全くの別次元です。

背筋を伸ばして、どこかしら張り詰めるものを。

le 6 vendredi
//たぶん// 十分個性的だと思います。それで良いと思っています。ただ、世間一般の幸せ尺度に自分を当てはめてしまうとき、意味もなく寂しくなるのでしょう。     僕に会う多くの人は、僕のことを変に思ったり個性的に思ってくれます。とても感謝するべきことです。  おそらく、自分では気がつかない変な行動基準は、これからも採用され続けることでしょう。  自分が「強いな〜」と思うとき、それは変な行動や活動で他人の口がポカーンと開いて、まあ、呆然とするとき。   その変は、公序良俗を乱すものではなく、そんな時間のすごし方をするの!とか、そんな出費をするの!とか。

無性に寂しく思ったり弱っていると思うときは、極稀にありますが、それは世間一般の基準を是として僕を見るとき。


お金がないのか厳しいのか保守的なのか。たぶん全ての理由が該当するのでしょう。僕は昔から、世間で流行っているものとか買ってもらえませんでした。それを恥ずかしく思ったり悔しく思ったり、惨めに思ったりすることがありました。ただ、今でも鮮明に思い出すのが、そんな惨めな感情を微塵たりとも感じると察知するとき、僕はたちまち舵を切り、惨めさを遠ざけたものです。

今でも自慢癖が過多だと思います。 それは、既に察知して舵を切っている証拠。僕が自慢する分だけ、何かに惨めさを感じ取り、遠ざけているのです。

あーーーーー  こんな内容、日記を何年も書いていて初めてのことです。

もし、脱皮する必要があるとかるのなら、
貧しさを曝け出さなければなりません。

le 5 jeudi
//小説家なら、、// ノートに万年筆。今ならノートパソコンでしょうか。
小説家なら、昨日や一昨日書いた、そんな通り過ぎる宿にも泊まる大義名分があります。   自分の肩書きに、小説家として添える才能があれば、ますます開花させたいと、通り過ぎる宿や霧雨の宿に泊まるのでしょう。

と、言うことで、何か一本応募してみようかな。それで採用とかされた場合、個人の肩書きに「小説家」として一言添えることができます。

そして僕は、好きな時に好きな場所に堂々と泊まることができる。


「学生時代」ではないけれど、ノートやインクの匂いには、憧れてしまいます。
書くということが、もはや「打つ」ことによって用を成している現代。
とても前近代的な所業ですが、やはり美味しいコーヒーは豆から挽くように、たまにはノートやインクの匂い、そしてペンの滑り心地に喜びを見出したいものです。

le 4 mercredi
//冷たい雨の、名もない宿// 現実逃避は続きます。
どうして未だに心に残るのか。小学生の頃、家族のドライブで岐阜の山中を名古屋に向けてと車を走らす。冷たい霧雨が山を水墨画のようにして、寂しくもある光景。 おそらく関あたりの、低い山の光景でしょうが、もう一度味わってみたいシーンに、時を越えて最前列に座る。

もうずいぶん前に大人になりました。
でも、そんな理由だけで、宿に泊まる自由はあっても度胸がまだない。

全くの快晴を狙って、どこか旅するプランは練りますが、
冷たい雨と前日の暖かい気温が残る小さな街。切というか水蒸気が、さほど低い山の中間に沸きあがる。そんな止む気配のない光景を、どこかの宿から、ボーっと眺めてみたい。

週間天気予報で、雨の日を狙って、どこかに滞在しようかしら。

冷たいというのは、僕にとって大切なもの。
それは夏でも良い。カキ氷ではありません。
夏なのに、冷たい雨。そう、冷夏の止む気配のない雨。好きです。
田は青々とした稲。冷たい雨がしとしとと降り続く。

le 3 mardi
//旅の途中の、さりげない宿// 世の中全ての宿がネットで調べられるのなら、もうネット行脚の毎日です。

その道は、昔からあり、その宿は「追分」 つまり、別の道との分岐点にある。山道をドライブしていると、かつては営業していた、いやいや今も営業している、そんな追分の宿を見つけてしまいます。

ただ、その情報は、ネットで探しても見つからない。

山道が、途中で分岐する、小さな集落に、宿がある。

今は車で通り過ぎてしまうが、その昔は、ここで一泊しないと夜も更けてしまうのだろう。

そんな、辻や追分の宿を見るたびに、無性に泊まってしまいたくなる。


思うのが、不審がられないのかと。
僕が理想とするのは、その時、その前を通って、泊まりたくなったから。
これが全ての理由。他にないのです。
こんな理由の宿泊客なんて、ふつうありえませんよね。

le 2 lundi
//暇なのに、時間の使い方が、、// 下手。  とくに週末とか。
することがなくてボーっとするのは好きです。
ただ、この暇な時間の質が低すぎて自己批判の対象です。

暇なら暇なりに休息後の英気とか、読書なり、多少生産的であれば救われるのですが、何もせずダラダラ。暇な時間に意味づけがない。

例えば、コーヒー。
暇なら、豆でも挽いてから美味しい一杯を楽しめば良いものの、
それさえめんどくさがって、インスタントで我慢する。

le 1er dimanche
//白い晴れ// 早くに目が覚めたというのに、青空ではなくて白い晴れ。
青空だったら、迷わず東三河の川売の梅の花を見に行ったのに。
本日したことといえば、一歩も家から出ず、ゴロゴロしたり昼寝したり、
間食したり。

実は、こういう時間のすごし方、慣れています。

コーヒー片手に、分厚い本と格闘。二時間ほどの昼寝も至福の時間。

//20年前の番組// CSで僕好みのチャンネルを発見。e2byスカパーで305チャンネル「チャンネル銀河」   大学の頃、NHKのBSで「素敵なカントリーホテル」という30分の米国の旅番組を放映していました。各地のプチホテルを巡る旅番組。  何気に見ていて飽きない、疲れもしない、このての番組は大好きです。  それをビデオに録りだめしていたものでした。ところが今になって見られるとは。


明日から月曜日。寝る前に心静かな時間を設けましょう。
願う姿を、心に描き、心静かに祈るなら、
それは須らく最善の形で解決されるのは毎度のことです。




→→→先月の日記←←←