令和5年3月mars.2023


le 31 vendredi 金曜日
//商売以前//変更したにもかかわらず、歯医者を忘れてしまった。約束一つ守れないなんて商売以前の話です。ただただ深い自己嫌悪。これから彼是しようと考える以前の話です。誰が私を信用しようか。


le 30 jeudi 金曜日
//出店準備//まだ工房も出来ていないのですが、名古屋でできる精一杯を近くのお寺で。
今朝は定刻通り起きまして座禅や健康体操など朝すべきことも調子良く。それから出店の準備をして、合間に素焼を取り出し、一部施釉。

夢はいろいろあるけれど、早く生活が落ち着いて、先々の予定に叶うような仕事をしたいものです。今は、たまたま勝手知ったお寺さんなので出店しているわけですが、名古屋に来たらすること、新しい工房ですることなど効率的な仕事をしたいものです。いづれ感覚も掴むのでしょうが、出店の間は制作出来ない。いやいや非出店日の全てを制作に費やせない。一体月に何日あるのだろう?そういう把握も早く掴みたいものです。


le 29 mercredi 水曜日
//ペヒペヒ//現金原理主義である私がとうとうペヒペヒを開設。口座連動は怖いので取り合えず10万円なのですが、この手の手段は複数持つと何れ忘れる存在も出てくるし、100円単位の残高で放置ってのもある。その数百円を利子で勝ち取るには莫大な預金が必要だと思うと、都度現金決済が理想なのです。

昨日のことですが、初めて稲武の街道筋を散策しました。足助のような街並みで平日の昼下がり、閑散としていて良い時間でした。

本日は疲れも多少残り1時間ほど寝過ごしてしまった。こういう甘えは組織に属していたらあり得ないこと。知らず知らず自分に甘え都合よく解釈するってのは、要警戒です。夜は寛ぎの時間でしたが、懲罰として勉強の時間に変更です。そうそう、三月なのにボタンが勢いよく咲き始めました。5月の花なのに、牡丹には何の罪もないけれど、季節の移ろいが不気味である。


le 28 mardi 火曜日
//私の休日//7時に稲武を出まして天龍村中井侍まで。斜面集落探訪になります。この場所にお参りをする仏様がいます。線香を一本、再びお参りできたことに感謝し、これよりのことを申し上げる。
それから天竜川を越え中井侍集落を散策。三十三観音という巨石に横穴を彫り小さな仏様を祀った素朴な信仰の場所があるのですが、ここにもお参り。もう20年近くお参りする場所です。実に不思議なのですが、急に涙が止めどもなく溢れ出し止まらなくなる。一人静かに訪ねるからこその涙でしょう。良い体験でした。

お昼前に、観音霊水。帰宅したのは16:30でした。私にとっては休日でしたが世の中は平日。今日味わった感覚は平日休み故のもの。私の波長に調和します。


le 27 lundi 月曜日
//謝恩会//瀬戸で謝恩会がありました。次に会うのが5月の末。それ以降は、もう無いかも知れません。今は求心力みたいなものを感じますが、長くは続かないでしょう。それぞれの道に進みます。
それから私は、名古屋に戻らず、稲武の道の駅にて充電仮眠。7時までグッスリ寝ていました。

そうそう、謝恩会の前、日記にも書きましたが道路脇のお花に徒歩で向かうことが出来まして、この間の事、これよりの事などお話いたしました。


le 26 dimanche 日曜日
//崇高な目標//ある若手の陶芸家は、最終目標は作品が美術館に収蔵されることと言いまして、実際に美しい作品ばかりを作っている。作ったら売れる等は確かに願いであるけれど、これが陶芸家の志であるなら早々に飽きられると思う。生活のために売らなくてはならないけれど、心に秘めた願いは崇高なものであって実際にそれを目指し作品を作る。志は高く、実際に動いてこそ現実も上へ上へ動くものだと考えます。

大倉陶園の社是には【良きが上にも良きもの】があります。現実として輝く存在は、それに至る以前から、既に胸中には【今があったのだ】と思う。作家とは口にすれば人が笑うくらいの志を持ってこそ存在に耐えうると考えます。もちろん、その心意気で製作することは必須ですが。

ある意味、思想家であるべきだと思うのです。もはや何かに属する存在でなくなったのですから、社長の訓示があるわけでもない。よって確固とした作家業の・美術家の・美の・製造業の・商いの哲学があって、迷いながら作るという不効率な時間だけは最初から避けなくてはならない。
 進むべき道や選択すべき事柄に迷いなく果敢に歩むためにも、何故私は陶芸家になったのか?何を作るのか?どこを目標とするのかを既に確固とした思いで持ち合わせねばならない。

そのためには、作品を見たり本や作家のブログを読んだり思索に耽ったり、暇な時間など全く無い。
自分の健康に留意して哲学者になる時間を設けて、「もはや我に一抹の迷い無し」と高らかに宣言できるような心意気を常に持ち合わせて、信念に基づき作陶する。

最終的な目標。根源的な思い。それは人が笑うくらいのものですが、これを見失ったら私は笑われる存在に転落する。何しに仕事辞めて陶芸家になったのだと。


le 25 samedi 土曜日
//土曜出社//前職の頃は、陶芸が出来るのは週末の特権。土日と没頭して、平日は仕事。これを10年続けました。漸く願い叶いまして、平日は仕事としての陶芸であり、今週も平日は8-17時まで専念(途中1時間の休みあり) そして迎える土曜日は、さて何して過ごす者かなと?当日考えれば良いものとしていたところ、全く素直に、昨日の続き。心の底から陶芸が好きなのです。

それでも何かが物足りないというか不完全燃焼。この答えも明瞭になりまして、それは会話の多様性が崩壊した現象だと思います。機微な受答えで周囲を笑わすとか、そういう頭の使い方も無くなりましたが、まあ一人で工房に籠ると、これは避けて通れない。理想の環境がもたらす、数少ない負の側面。ただ悲観することは無くて、今二つの理由を挙げることができます。
 その一は、今までが過度なおしゃべり人生で、当分無言で過ごしたにせよ、全く問題が無いと考えます。次に、これは肝ですが、人と話したい欲求が高まれば、私は人前に出て売り歩けば良い。作るのは好きでも売るのは苦手では、これは趣味の陶芸のまま。私の生業としての陶芸は製造と販売。この販売の後押しに、会話の楽しみが私を後押ししてくれると期待するのです。だから平素は無口なくらいがちょうど良いと考えます。


le 24 vendredi 金曜日
//これも追加で//

今朝は30分早起きをしまして座禅を20×2
それから暖かく湿った雨上がりの公園を健康体操しまして、勉強の時間。良い経験を積んだと思うのは、こんな湿り気の雨上がりの温かい朝の、例えば信州でも美濃でも、山里の光景を容易に想像できること。山の緑は水墨画のように濃い灰色で僅かに黒い緑を感じ取れる程度、空は重い曇天で、山肌の凹凸の凹の、谷川が流れているだろう窪地から勢いよく雲が湧き上がっている。

人生は一度きりだけど、例えば、こんな曇天の山村の朝の春休み。受験勉強をしている少年の窓から見える景色が、上に書いた湧き上がる雲を遠くに眺め朝食の呼び声までカリカリ机に向かっていると考えると、ほんの少し、世界が広がるような思いです。この後、全く違うお味噌汁が出てくると思うと、私の人生って本当に目の届く範囲の小さな世界を【全てだ】と錯覚しているのだと考えてしまいます。
 遠くに行く必要はないけれど、窓の数だけ、その人の時間軸や光景があって私の知らない物語が日々重ねられていく。当の本人は当たり前すぎて何の感慨も湧かないけれど、もし日々の物語を垣間見えたとしたら、その平々凡々な日常であっても、垂涎の眼差しで眺める人も居るのだろう。嗚呼、こういう日常が欲しかったと。

今年は新しい窓から外を眺めますが、心のどこかには南信州の山村の、そこで生活する人の、在り来たりな日常を羨んだり懐かしんだりもすることでしょう。でも人生は一度きりだし他人にはなれない。だから私は、美しい短文を書き記して心に翼を持とうと思うのです。


le 23 jeudi 木曜日
//雨で思う//雨音を聴きながら仕事。思い出すのは瀬戸でもなく前職時代の雨。今もこの雨の中で働いている人がいると思うと、私も8:00-17:00の間は仕事に専念しなくてはと思いも新たに。

毎朝、健康の時間を設けています。座ってばかりの陶芸家は足腰が衰弱する傾向にあります。
さて内容ですが、家の前の公園は池を一周歩くと1kmになります。最初の1kmはつま先のみで、まるでハイヒール履いたかのようなスタイルで歩きます。これにより第二の心臓と呼ばれる脹脛も程よい筋肉痛。もう一周は速いテンポでのウォーキング。踵落しも200回ほど行います。これは22段の階段を、全身の骨にドスンと刺激が来るように、飛び降りるような感じで下りたり上ったり。上がる時は、踵がお尻を叩くようにします。この他に股関節や内股の筋肉を使う運動も少し。約40分のコースとなります。

因みに、この健康運動の前に座禅の時間を設けています。何が良いのか、日中、全く睡魔に襲われません。これは劇的な変化です。

職住一体の環境になり、通勤時間は0分になりました。朝の通勤・通学の時間を、座禅・健康運動・勉強に費やしています。帰り分は、今のところ寛ぎの時間になっていますが、今後、この帰路に当たる時間も、我が身の成長に繋がるような過ごし方として固定化していきたいものです。


le 22 mercredi 水曜日
//仕事です//起床から17時までの過ごし方は、ほぼ落ち着いてきました。もはや、仕事としての陶芸ですから、一定の枠内で淡々と進める姿は当然ではあります。(只今、インスタのストーリーで詳細up中) 
 17時から就寝までの過ごし方は、まだ模索中ですが、ここは自由にしないと、束縛の大反動もありそうで自己管理の肝に当たると思います。自由であっても実のある過ごし方。この探求。

午前中は瀬戸市のコミュニティーFMを聴きながらの作陶。途中、鶯が至近で鳴く事、これで三日目。

昨日の日記にも書きましたか、一種の不完全燃焼は以前は会話量が膨大で、それ自体が相当カロリーを消費していて、心身共に心地良い疲れを醸し出したと思うのです。この余剰活力を今現在、使い切れていなくモヤモヤしている。一つの解決策は頭にあるのですが、それは新工房が軌道に乗ってから実践したいので、半年ほど別な何かを考えなくてはなりません。


le 21 mardi 火曜日
//読書欲//少し衰えてきている。これは要注意。瀬戸に通うことも無くなり半月以上が経過して、何が変わるかと言ったら、古書を読む喜びの衰え。諸々の魔から身を守るために用意した古書でありますから、やはり常日ごろから読みたい読みたいと迫ってくるくらいがちょうど良い。

不調ではないのですが、以前に当り前に使っていただろう力量が、今では毎日余る状況で、疲れるくらいの心地良さから遠ざかっています。連日クタクタになって帰ってきた身体の方が、締った感じで心地良かったと今にして分かる。適度な疲労感を、意味あるものに従事した結果、味わう、生活の再設計が必要です。

やはり夜にも座禅は必要かな。それと英語の勉強も集中して。

これを入れ忘れていました。


le 20 lundi 月曜日
//素敵な朝//朝から17時までは時間割通り過ごしましたが、生産性の視点から言うと落第。まだ手が慣れていません。仕事の上では満足いきませんでしたが、朝の過ごし方は心地良かった。ただ雨が降ると、思うようにはいかないので、雨降りに特化した過ごし方も考えねばと思います。

仕事なんですよ。今までは趣味であって失敗しようがお構いなしに新しい形に挑戦していました。この癖は今も治らずで、一輪挿しという枠内で思いつくままの形状に挑戦。これが歩留まり低下の要因なのですが、心の片隅にさえ同じものを造ろうとの考えは湧かない。

昨晩、昔の日記を読み返していました。令和二年の10月22日まで退社するなんて全く思ってもいませんでした。この辺りから、急に、この道ではない別の道と思い始めてある種の決心を持ち始めました。(偶然にも10/29には憤ることがあって決意新たにしています!!!) そして翌年の2月22日に辞表を出したので、この間、4か月。人生の在り方を根本から変えた4か月。今、読み返しても不思議です。こんなに短期間でしたっけ?と。

それから二年間の準備期間でありましたが、全く準備は整わず今から始める有様ですが、今年いっぱいは落ち着かない日々なのでしょう。その後、全てが軌道に乗るとは考えられないので、25年の安定時代のあとは4-5年は戦後の混乱期みたいな毎日なのでしょうか?


le 19 dimanche 日曜日
//おんな太閤記//終わってしましました。日曜朝の楽しみが消えるのですが、来週からは篤姫だそうです。一年付き合うか迷うなあ。

本日も少しロクロ。仕事モードは明日からとします。と、言うことで、こういう先々の時間配分は好きなのですが明日の有り様を書いてみたいと思います。

5:30-6:00 起床
6:00-30 座禅と祈り
6:30-7:30 ウォーキングと健康体操
7:30-8:00 読書
8:00-11:45 生産活動 ※途中15分の休憩×1
11:45-12:30 昼休憩
12:30-17:00 生産活動 ※途中15分の休憩×2
17:00-19:00 入浴と夕食
19:00-21:00 生産活動に付随するデスクワーク
21:00-22:30 自由時間・勉強・読書・座禅

まあ、この手の理想時間割でその様になった例は一度もありませんが、期待するのは、夢に描いた本業の姿を、漸く実践できるということ。何度か繰り返すうちに、組織には属しませんが一定のパターンには仕上がっていくことでしょう。
肝要な点は生産性の向上。長時間だから良い出来上がりになるわけでもないのが陶芸の特色。機械を少しでも長く稼働させるのではなく、人間の冴えに頼るところが大きいので。ですが冴えたと言って短時間でおしまいなのもダメ。冴えが崩れる日も想定して、やはり良きものを多く作り上げて行きたいものです。それと品質の良きものを仕上げること。私の弱点は8割方作った後の工程を軽視するところにある。瀬戸で最後に言われました、その二割に気が付いて買わない人は多くいると思うと


le 18 samedi 土曜日
//お祝い//本日は兄上家族と共に合同卒業祝い。高校と大学、そして私の瀬戸の日々。私のはオマケ程度なのですが、兄上家族から望外のお祝いを頂きまして、心に深く染み入る瞬間でした。
もはや、何の言い訳も通じません。魂の奥深くから陶芸に精進して、多くの人のお気持ちに応えられるよう励みます。

と、これは夜の事。日中は、久しぶりの轆轤でしたが、まったく勘が鈍り酷いものでした。スラスラと作るためには、ある程度の踏み台は必要ですが、生産性の側面から考えるとある程度絞り込んで作り、歩留まりの向上を目指さなくては。


le 17 vendredi 金曜日
//下準備//本日から自宅工房再開の予定でしたが、あまりに中断が長く粘土も乾燥が進んだり、結局、汚れはしましたが何も作れませんでした。明日は朝から造形と生産です。

その朝ですが、今朝は6時から20分座禅をし、それから祈りの時間。この後、40分ほどウォーキング&健康体操。帰宅後10分ほど座禅。

良い発見がありました。私が通勤通学で気にする人は、その短い時間から凛とした生活がうかがえる何かを発している人。もう、そんな出会いはないと覚悟していましたが、朝のウォーキングでスポーティーエレガンスな人を発見。颯爽とジョギングする彼は、おそらく出勤前の自己鍛錬の時間。時間ある老人のダラダラ散歩ではなく、身体の健康のために最も合理的な時間の配分と決断。一日の僅かな時間でも良いので、こういう凛とした人との接点は持ちたいものです。ということで朝の時間配分は固定化決定。

そうそう。クーラー設置を見合わせる代替手段として空調服を用意しようかと考えています。そもそも陶芸をする環境でクーラーは早々の目詰まりを誘発するだけで、設置しない工房もままあります。当初は井戸水クーラーも考えていましたが、想像以上の取水で地盤沈下とかシャレにならない。アレコレ考えて、今のところ断熱塗装と空調服。可能ならば井戸水ミストファン。これで乗り越えられそうな気もしますが、、、どうでしょうか?


le 16 jeudi 木曜日
//運命の老人が語るもの//本日、少し離れたアオキスーパーに行きました。一年ぶりでしょうか。何故、この日記を書くかというと、その一年前に見た老人を、また見たからでした。70代後半と思われる男性老人。独居老人でしょう。服は汚れて破れているところがあり、一年前と同じく、服に染みついた尿の発酵した臭いも強烈でありました。ただ財布は綺麗で緑区でもありますし路上生活者ではないでしょう。思うにアパートで独り暮らしの老人。

私も、ともすれば同じ道を歩むのだろう。その老人は自らが汚いとか匂うとか、夏の暑さを感じづらくなった老人のように、不精に頓着しない。これは深刻である。いずれ感覚が衰えるので汚れた生活は近寄って来そうにあるので、汚れたから洗濯をするのではなくて、一日、二日とその後には必ず洗濯をするという習慣を持たねばと切に思った。

哀れよ。 当の本人にその認識が無いのに嫌がられる存在に転落するのは。芸として生きる以上、何処で老いるかは自分の意思である。心配な息子が施設に入れたとか面倒を見るとか考えることすらお門違い。命潰える直前まで凛として生きる生活は、自分を律する毎日でもあると思う。そういう習慣を老人になる前には習得しなければと、これは50代芸の必須科目ですね。

//座禅のその後//最近、朝に20分の座禅をします。この間、瞑想に近づけ願い事など神仏に祈る事もしていません。何も考えない至難の行。
20分後、足をほどくと血液が勢いよく痺れた足に流れていくのを感じますが、これと同じことが脳でも起こります。何も考えない事から解放された、その時から、私は祈りの時間に入ります。すると頭も慈しみが満ち溢れるように、祈りの文言を吸い取ってくれるのです。

瀬戸を去ってから、自分を律することがどれほど大切なのかと痛感しています。もう昔のように暴飲暴食も出来ません。日々、効果的な健康運動も取り入れ、車は安全運転、労働災害もないように。なにより心の健康こそ最も大切で、見向きもされない日々が続いたにせよ、志は高く私の魂を信頼して喜びながら土に向き合う。エゴでする陶芸ではなく、土から美しき物、価値あるものを、安全に多くの人にお届けする素晴らしい存在であるべきだと、いつも思い描くことです。


le 15 mercredi 水曜日
//井戸水//昔ながらの井戸ではなくて、畑の水やりに15m掘削して出てくる井戸水。本日も新工房予定地へ。驚くほどの価格高騰で太陽光の設備は見合わせ。クーラーも同じく。断熱塗装と断熱材。これだけですが、井戸水を何とか冷却の手段に出来ればと考えているのですが、蛇口をひねると、最初の内は細かな砂が出てきたりする。これが厄介で、ミスト冷却は目ずまりで無理かもと失望の域です。屋根に降らせて冷やすくらいでしょうか。長い銅管で熱交換も考えましたが、銅管もまた高い。何か良い案出てこないかしら?

帰り際、ふと思った。田舎8割、都会二割の混在地域。私の理想とする景観ではありませんが、山村の情緒を味わうために私がすることは、西に向かうだけ。海を見たければ東か南東に。買物がしたければ東か北東にハンドルを切るだけ。信州の山は更に遠くなりましたが、名古屋一号窯も毎週行き来するので、今ある選択肢にプラスして風景を選べるのは素敵だと。


le 14 mardi 火曜日
//220円//以前、●●off系で古書を買いました。この手の店の品揃えは私の好みではないのですが、参考書等は古(いにしえ)の古書店には無い安さです。おそらく勉学に見向きもしなかった高校生とかが大量に持ち込むのでしょう。未使用の状態で格安。そんなお店で、英語の文法の本を買いました。

この本が今大活躍。瀬戸を去ってからまもなく半月。集団で何かすることもなく会話量は激減しましたが、この本で今一度勉強再開。英語は特に口を大きくしながら発音するので、お口周りの筋肉は以前と同様に活発に動いています

さて学習の成果は今のところ全く現れていませんが楽しいので今後も続けます。こういう没頭ってのは、ある時、急に展開するものだろうから、兎にも角にも続けて参りましょう。

昨日から名古屋一号窯も整理整頓を始めました。移転作業ではなく移転までの日々が相当あると思うので、こちらでも作陶を再開ということです。
 そうそう昨日の良いことってのは、移行期の過ごし方で、ある事柄が解釈の違いで全くの想定外となり今後の在り方に制限がなくなったということです。人によっては失望したり食い下がったりするのでしょうが、そういう気持は全く湧かず、それなら仕方ない先に進むだけだわと、自分でも全く不思議です。先日の立原道造全集の件もそうですが、成るべくして成るのが最善だと思っているので、良き道を選べたと感謝しています。
 心するのは最善のレールが敷かれたのだから、怠惰にならず何事も果敢に取り組むべきだと。これが絶対の条件。


le 13 lundi 月曜日
//私の好きな曲//全て南信州に一人通い詰めた記憶とセットです。私の青春は30代であったと思う。とにかく旋律か美しく立脚しているところが良いのです。

                   
【追加】 

これらの音楽は長距離の山道を一人ハンドルを握りながらのセットです。理想と孤独と充実が濃密に私を覆う時間でありました。

気を抜いたら事故になる。
誰にも邪魔されず行きたい所に行く最中。
その場所の素晴らしさは私くらいしか知らない。

頼ることの無い環境では、いつも少しばかりの緊張感があるのだけど、おそらく、この感覚があるから美しい記憶のままなのだろう。私がこれから歩む道もこれと全く同じです。だから、上に挙げた音楽の数々は、懐かしい記憶であり今であり、その先でもあるのです。とりあえず20曲載せましたがお時間ある時にでもどうぞ。きっと素敵な旋律に出会うと思います。
 今日は良いことがありました。


le 12 dimanche 日曜日
//春の嵐の//予感。南風が強く吹き始めました。ここ数日の霞濃い春の空気も洗われる雨でしょうか。もっとも好きな晴れは冬の快晴。春は霞と言いますが、こういう白い晴れより青い晴れが私にとっての最高の日和。では何が春の美かというと、春の嵐。しとしと雨も好きですが、心が少しばかり不安になるくらいの鉛色の雲に早く流れる雲。これこそが花も散るよな春の嵐。

今年は間に合いませんでしたが、こんな春の嵐の日に、日中なのに電灯の明りに頼って作陶する心地は、これは夢に見た光景の確かに一つではある。

さて進捗状況ですが、最善の窯の組み合わせが見当たらず、一人図面を見ながら悶々としています。全くの山奥なら何の制約もないのですが、、もっと考えて良き答えを導きたいものです。。


le 11 samedi 土曜日
//身震いした//数日前から立原道造全集が欲しいと思っていました。それを思い描いていました。本日、全く同じ光景で売っていました。古書店に入り、最初に見上げた棚にそれがあったのです。

私が古書を買い漁る大きな理由は、いずれ生活の場所も変わる。一人は好きですが、心を塞ぐ生き方には激しく警戒するものであって、何か躓いたり嫌なことがあったときに、山のような本を見たら、そんなことより、「これ読んでみよう」と私を健全な方向へ導いてくれることを期待するからです。

今日は他にも面白い本を買いました。昭和五年の【日本温泉案内】東部編・西部編。
あの頃の日本は広く、樺太の温泉の紹介とか、朝鮮・台湾の温泉も同じ日本国として案内しています。もし、戦争で負けていなかったら、温泉通の守備範囲は更に1000km2000km遠方に広がるってことです。

さて本日は慰霊の日でもあります。大震災から12年目。私の陶芸歴と同じです。
大震災の2週間前に陶芸の扉を開けました。それから誰もが驚く没頭と上達。信じて疑わないのは、私の魂に陶芸家さんは居ただろうし、大震災で志半ばの陶芸の情熱も瞬時に私に宿ってくれたと。これらは完全な調和でもって私を導いてくださります。これからの陶芸は生業としての陶芸。見知らぬ道を進むのですが、それは表面的なこと。深い私に話しかければ、達人ですよ。きっと色々と良き計らいを提示してくれます。私は私と常に語り合って、一人であって一人でない心賑やかな陶芸の道を進んでいくことになります。
今は須らく最善の形で新しい陶芸の環境が整備されることを一同相談しまた祈る次第です。


le 10 vendredi 金曜日
//どういう訳か?//何でしょう?
どう例えたら良いのか、例えば悲しいことがあった時、それが改善されず継続しているなら、悲しみもまた並走している。ところが状況は変わらないものの、急にケロリと意に介さなくなる。
こうも言える。親しい者の死に涙も多く流した。でも深い悲しみは、ある時点を過ぎたらケロリと意に介さなくなる。死者が蘇るわけでもないのに。

本日も新工房予定地へ。少し少しではありますが進んでいます。まだ解決するべきことは多いのですが、【別に殺されるわけでもない】と思うと、なんだか全ての困難は些細なものに思えてきました。

ただ、なんでも些細な事と言って、迷惑かける生き方だけはしてはならない。

立場の上下で、下位に当たる者へ尊大な態度とか、あれは全く見苦しい。当の本人は勝ち誇るのだろうが、人の恨みは多く買うものだし、そういう見えない力が、良きに作用することはあり得ない。心狭き者は立場もまた狭きものとなると私は思うのだが、尊大な人ってのは気が付かないから尊大なままなのでしょう。もし「最近、運が悪い」とか思っているのなら、見えない力が悪しきに作用し始めているのだと思う。

私に出来ることと言ったら、それとは対照的な生き方をするだけ。人に生かされている奇跡を有難く思い、その気持ちで接するだけ。


le 9 jeudi 木曜日
//大府歴史民俗資料館//大倉陶園の創業家と大府市には縁があって、数年前多治見で見た大型企画の抜粋版を商工会議所20年周年企画として無料で観覧してきました。学び直しに良い機会でありました。 それにしても暑いくらいの陽気です。本日は朝から座禅、それから大府に行って帰宅してからは、お勉強。新工房の進捗具合は屋敷林を伐採。伐根には至らず。まだ赤ちゃんの産声の段階です。


さて、おそらく江戸時代の中期は衣浦湾はもっと奥に入り込んで、今では考えられませんが刈谷市も大府市も豊明市も海に面していたと思われます。そういう企画があったら面白いと、これは私の希望です。

今は正直言うと、移転作業に行き来したりで轆轤を回す状況にありません。これがどのくらい続くのかはさっぱり分りませんが、美しいと思う心は忘れず日々充実したものでありたいです。


le 8 mercredi 水曜日
//須らく最善の形で//解決されますように。

本日も新工房建設地に。全く問題なく全てがスラスラ進んでいく状況にはなくて、ある面においては深く祈って解決を待つしかない問題も出てきました。

私が存在する意味を考えます。陶芸より深い意味があって、陶芸は私の身体の自由を担保するものであり、よって、自由な私は、その場所で陶芸以外の使命があると思うのです。
なんだか、前職の頃の頑張りも、これだったのかと思う。もう、その場所で、それをする意味がなくなったから、私は陶芸という自由をもって、新しい場所で、また必死に頑張るのだろう。


le 7 mardi 火曜日
//尾張瀬戸⇒大曽根//本日は、早速瀬戸に、車にて。帰り、急に眠たくなりましたが、まあ、何とか無事に帰宅。つい最近まで、朝から全力投球で夕方や夜、尾張瀬戸から大曾根までの車内では、私はグッスリ仮眠。これが、その後の時間の質を劇的に高め、毎日、帰宅しても充実な過ごし方でした。

ハンドルを握ると、移動しながら仮眠はできない。どうにもならなくて、何処かで寝たとしても、その分、到着時間もずれ込むし、尚且つ、グッスリ仮眠できるかも疑わしい。電車での移動の最大の利点は、寝ようが人間観察しようが本を読もうが、この身は確実に目的地に近づく。車で、早く帰宅できたとしても、その後、リセット仮眠をしたら結局、活動再開時刻は変わらないと思う。

そこで私は思うのですが、距離ある運転をする場合、空腹に近い状況でハンドルを握り、そもそも眠気自体を発生させないことが肝要なのかと考えます。消化に血液が胃袋に集る中でハンドルを握ると、脳はオーバーヒート気味になって睡魔が襲う。我慢して帰宅しても、脳は損傷回復のため睡眠を命じる。よって早く帰宅しても特に何することもなく生産性は低下する。

//座禅の効用//昨日に引き続き今朝も3-40分ほど座禅しました。座禅は瞑想でもあって、起きているけれど考えない。これが至難の業で長く続かないのですが、つまり人間は常に考えるから、そこに存在するのであって、これを持ち合わさないことな、元来、あり得ないことだと思うのですが、それを目指す。ですが、二日目にして効果らしきものを感じます。それは妙なソワソワ感が無くなったことです。

今は片付けや移動で陶芸再開は全く考えられませんが、最低限、仕事していた時間帯は私も並走することが絶対条件。でも、忙中閑ありではありませんが、片付け・移動のみで日が暮れることはありません。閑に当たる時間帯は勉強であり、疲れたなと感じたら座禅。することが無いから遊びふけたり惰眠の喜びを味わうようでは、私は勝負する前から敗者である。


le 6 lundi 月曜日
//あの時ほどではなかった//緊張感で言ったら前職を辞めた翌日が遥かに勝っていた。
本日は怠惰で過ごすことはありませんでしたが、上述のような緊張感は出てこなかった。本当の一匹狼になったのだから、もっと強く焦ると思ったのですが、そんなことはなく。

朝から健康体操に座禅。それから郵便局に手続き二軒。あとは勉強。

それでも今週はそれなりに予定が詰まっている。兎に角、仕事していた頃の時間帯は休養の時間とはしません。することが無かったら勉強です。


le 5 dimanche 日曜日
//情緒無い道//私がハンドルを握る時。それは情緒ある世界に向けての旅立ち。本日は朝から新工房予定地に。全道程の99%は産業道路とか幹線道路の風情。ようやく落ち着く光景に出会ったら、程なく到着。新天地は田舎の情緒もなく、都会のはずれ。都会二割に田舎八割の混在地域。

三月は週に一日は。四月には二日程度通うつもりです。
まず、書斎兼寝室でもある自室の再生。漆喰の壁塗り。これと並行して工房の建設となります。

今、電気窯の他に灯油窯を考えています。
予算上、融通が利けば小型実験炉は欲しいのですが、さてどうなる事やら。


le 4 samedi 土曜日
//常滑//陶の森研究所の修了展に行って参りました。素晴らしい展示と人柄の良さに、うっとりした展示でありました。今回、施設の案内も受けましたが、これが実に素晴しい環境。若ければ、迷わず選択していたと思うのです。

「若い子は、これから(の道を)選択しなければならない。僕は年寄りだから迷わず進むだけ。なのに若い子は一つ選ばなくてはならないから残酷だと思う」と、去年言ったのですが、残り一年となり「その意味が分かりました」と言われる。彼は私の一つ上の学年、去年卒業して陶の森に入りました。月日は早いもので、彼は陶の森に居られるのも、残すところ一年に。

少しはノンビリできるかと思ったのですが、明日も明後日も慌ただしい。これが単発の連続なので、気楽さが伴わない。疲れる三月は確定です。

そうそう、今朝に限ってまだ卒業していない夢を見ていた。夢は先に見るもの。楽しい日々ではありましたが、瀬戸は一旦遠ざかる町。と書いて思い出したのですが、前職を辞めても相当期間、職場の夢を見ていたのはこの日記に書いていますから、切り替えできるかな? 流石に最近は現役の頃の夢は見なくなりました。あの頃は、一つ前ではなくて、もう一つ前の時代になってしまったから。


le 3 vendredi 金曜日
//修了しました//もっと泣くものだと思っていましたが、そんなことはなく。

本日、瀬戸で陶芸を学び続けた日々を修了いたしました。
支えてくださった方、御縁を戴いた全ての人に感謝申し上げます。
これを持ちまして、月曜の朝になったから電車に乗って学んだり・勤めたりする32年間続いた日々も終えることとなりました。今後は陶芸を生業として命続くまで土から美と価値を生み出して参りたいと存じます。

さあ、これからは自己管理の時代。全ての責任は一身に私が背負うものになります。正直申しますと、楽しみでもあります。風邪は民間療法で治し続けた私にとって、一連の工程は知恵や工夫の楽しみ。これの365日版です。常に、知恵と工夫で自分を律する。

毎日することを列記します。
●よく噛んで食べる。慌てて食べることから卒業します。
●座禅・瞑想の時間を持つ。
●健康体操をする。
●晴れていたら、ウォーキング。

明日明後日は週末ですが、月曜からの緊張感は相当なものだと思う。私には怠惰になる自由があると思うと、空恐ろしいし、戒めてくれる人もいないのだから尚の事。そういう緊張感のある自由は、中井侍に行く道のように、私が欲しているのだと思う。魂の一つに、命の掛けて挑んだ工芸家がいたのかも知れません。殿様の機嫌を損なうと首も飛ぶような環境なのに、見事やり切った工芸家。


le 2 jeudi 木曜日
//予行演習//明日は修了式、本日はその演習。午後は共用部分の大掃除。
いよいよ明日のみとなりました。喜び勇んで登る坂道も、帰る頃の日の傾きで季節の移ろいを感じた西の空も、新緑の透ける緑も紅葉も、私の好きな定点観測であった愛窯坂も明日でもって、サヨウナラです。

私は詩人になろうと思う。

これからは、新緑の美しさを仲間に熱弁することは出来なくなります。好きな道は深い孤独の世界。感動したことを詩にして、これからは何かの形で発信したいと思うのです。これは陶芸以上に重要であって、美を見出したり喜ぶ感覚は表明する相手がいてこそ、より鋭敏になるからです。この二年間は、聞いてくださる方々に恵まれましたが、その環境が終焉したと同時に美が鈍化することがあってはならない。

日々美しいものを感じ取り、言葉にして伝えて、形にしてみる。

新しい日常が落ち着いたら、もう一つアカウントを作って、そこは作品と言葉の世界。今あるのは、作品もありますが雑多な内容で、古書の話や制作の工程などを発信していきたいです。

明日は早く行く必要はないけれど、いつもの時間に家を出ます。【知らない顔見知り】さんに心の中で最後の挨拶。余る時間は朝に深川神社に参拝するので問題はない。あああ、明日でもう二度と会えないと思うと感慨深い。都合32年間続いた公共交通機関を使っての通勤通学も明日でおしまい。


le 1er mercredi 水曜日
//二往復//これにて瀬戸から持ち帰るものと言ったら、当日の証書だけとなりました。
本日は、これを達成するために車にて二往復。何度も走らせた道でしたが、今後は陶芸の材料調達など仕事の上での道となります。私の生業が盛んになれば、これに比例して通うことも増えるでしょう。通り過ぎると挨拶する【お花】があるのですが、そうなることを誓いました。

このお花は、また生き生きとしたものに替えられている!! 
ご家族の深い愛情があってこその【お花】との出会い。今が江戸時代でしたら、この場所にお地蔵様なのでしょうが、その意味をお花が示して下さる。これに気付いてから、手を合わせ始め、お花の交換に気付いてからは、ご家族の深い愛情にも気が付き、何時しか、手を合わせるだけでなく、なんとなく日々の報告をして、とうとう今後の決意をも伝えるまでに。



 
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